かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

ネガティブ・ルーレット(創作掌編)

 

 就職を機に一人暮らしを始めた兄は、「便りがないのは良い便り」とでも言うように、めったに連絡を寄こさなかった。

 けれども、趣味にしているフリーソフト(無料かつ無償で利用できるソフトウェア)制作のおかげで、どうやら元気に暮らしているらしいとわかるのだ。

 私は、フリーソフトの紹介サイトで、お気に入りの制作者として、兄のことを登録している。すると、新作のお知らせや、発表済みソフトの更新情報などの通知が届くので、結果的に生存確認ができるというわけである。

 

 兄が制作した最初のソフトウェアは、『逆引き花ことば事典』だった。

 当時、花屋でアルバイトしていた私の頼みに応じて作ってくれたものだ。

「愛」「友情」「感謝」などの単語だけでなく、

「遠くへ旅立っていく片想いの相手を笑顔で見送る」とか、

「ケンカしてSNSをブロックされてしまった恋人に許しを請う」というような、特定の状況に即した花の候補を、ファジー検索で探し出してくれるという、便利なアプリだ。

 それ以来、無くてもまったく困らないけれど、あればちょっと役に立つかもしれない、というタイプのフリーソフトを、こつこつと作り続けている。時おり、サイトのコメント欄に寄せられる「ありがとう」のメッセージ、フィードバックや改良リクエストなどが、モチベーションになっているようだ。

 

  ある日、お気に入り制作者の新着ソフトあり、との通知が来ていたので、さっそくダウンロードした。

 名称『ネガティブ・ルーレット』

 ルーレット型のおみくじソフトだ。画面上のボタン操作でルーレットを回し、好きなタイミングで止めると、結果が文字と音声で知らされる。

 とりあえずやってみて、最初に出たのは、

【チャンスの神には前髪しかない】

 という言葉だった。

 

 さらに回してみると、

【一寸先は闇】

【後悔先に立たず】

【急いては事を仕損じる】

【万事休す】

【諦めは心の養生】

 などの、ことわざや、

【前途多難】【意気消沈】【疑心暗鬼】【自業自得】【風前之灯】

 という四文字熟語。

 

 他にも、

【ふたつよいこと、さてないものよ】(古い俗謡)

【​咳をしてもひとり】(自由律俳句 尾崎放哉)

【「最悪だ」などと言えるうちは、まだ最悪ではない】(『リア王ウィリアム・シェイクスピア

【久しくとどまりたるためしなし】(『方丈記鴨長明

【いちばんいいことを希望して、いちばんわるいことがおこってもおどろくなってさ】(リトルミイムーミン谷の仲間たち』トーベ・ヤンソン

 ──などなど、ジャンルを問わない。

 

 共通している点は、ソフト名の通り「ネガティブ」だ。いくらルーレットを回しても、「当たり!」と言う感じの、明るくポジティブな言葉は出てこない。

 ただ、読み上げる声は優しくて、耳に心地よかった。合成音声ソフトで作ったのだろう、やや棒読みだけれども、癒し効果の高い声だ。かなり苦心して調節したに違いない。

(お兄ちゃんとしては異色作だ。どうしちゃったのかな……)

 少し心配になった私は、兄に電話して、晩ごはんの約束を取りつけた。

 

 会うのは3ヶ月振り、兄が駅の階段を転げ落ち、救急車で運ばれて以来である。

 頭部を打ったということでCT検査をしたが異常はなく、幸いにも、軽い打撲傷だけで済んだ。けれど、母と私が病院に駆けつけると、兄は意気消沈してうなだれていた。

 聞けば、その日は資格取得のため定期的に通っていた、講習会の最終日だったそうだ。定時退社する直前、上司に呼び止められて出遅れ、かなり焦っていたため、全速力で駆け下りようとした階段を踏み外したらしい。(急いては事を仕損じる)

 

 待ち合わせした店に行くと、兄はもう先に来ていた。

「お待たせ。その後、ケガの調子はどう?」

「ああ、すっかり大丈夫だよ。自業自得とはいえ、えらい目にあったもんだ。でも、講習会の事務局に事情を説明したら、オンラインで補習させてもらえて、資格も無事取れた」

「よかったね」

 笑みを浮かべてうなずいたけれど、あまり嬉しそうじゃない。いつになく食欲もないようだ。

 頃合いを見計らって聞いてみる。

「新作の『ネガティブ・ルーレット』やってみたよ。落ち込んでるときは、変に明るく励まされるより、ああいう言葉のほうが沁みるかもしれないね。でも、もしかして、なんかイヤなことでもあった?」

 

 すると兄は、ぽつりぽつり話し始めた。

 

 講習会で席が隣り合わせになった女性に、ひと目で好意を持ったこと。

 話してみると楽しくて、相手も自分に親しみを感じてくれている様子なので、最終日には連絡先を交換したいと思っていたこと。

 それなのに、事故で出席できなくなり、縁が途切れてしまったこと──。

「講習会の事務局にも問い合わせてみたけれど、個人情報だからね、当然、教えてもらえなかった。こんなことなら、早めに名刺交換しておけばよかったよ」(後悔先に立たず)

「でも、本名を知っていれば、探し出せる可能性もあるんじゃない?」

「いや、わかっているのは名字だけなんだ。しかも、佐藤さん」

 私たちも「田中」だけれど、それ以上にメジャーな名字である。

 

「一度、雑談しているとき、名字の話になったんだ。佐藤とか田中って、どこに行ってもひとりやふたりいるよね、とか、でも僕の名前は回文になっているから、その点では珍しいんだ、とかね」

 兄の姓名は、田中奏多(たなか・かなた)。最初から読んでも、最後から読んでも同じ、回文の名前なのだ。

「今にして思えば、自然な流れで佐藤さんのファーストネームを聞けるチャンスだったのに……。つい、会社で同期の回文名仲間、古池景子(こいけ・けいこ)の話なんかして、しかも彼女は学生結婚で古池姓になったのだから、自分と違ってもともと回文だったわけじゃない、なんてどうでもいいことをしゃべっているうちに、タイミングを逸してしまった!」

 そう言って、兄は頭を抱えた。(チャンスの神には前髪しかない)

 

(お兄ちゃんって、こんなめんどくさい人だったっけ?)

 と内心思ったが、そもそも恋愛とはそういうものかもしれない。

「実は、あのルーレットのテキスト読み上げ音声、佐藤さんの声をモデルにしたんだ」

「そうなんだ、優しい声だから癒されるよね」

「ありがとう。つくづく趣味を持っててよかったと思うよ。ソフトウェア作りに没頭しているうちに、だんだん心が落ち着いてきて、あれはもう仕方ないことだったんだ……と、考えられるようになった。おかげで、ずいぶん気がラクになったよ」(諦めは心の養生)

  といって、兄は寂しく笑った。

 

 

 ところが、その後、事態は急展開したのだった。

 例の回文名仲間の古池景子さんが、取引先の新しい担当者と名刺交換したところ、相手の女性から、

「お名前が回文なんですね。もしかして、田中奏多さんという方をご存じではありませんか?」

 と、尋ねられたのである。

「これは奇遇だ!」ということになり、佐藤さんと古池さん、そして兄も交えて3人で、近々食事に行く話がまとまったそうだ。

 

 まもなく、『ネガティブ・ルーレット』のアップデートのお知らせが届いた。

 どのあたりが更新されたのかと思い、チェックしてみたら、

 

【チャンスの神には前髪しかない、とは限らない

 

 と、変わっていた。 

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