ハヤさんの頭のなかに眠っている前世の記憶は、ふとしたひと言をきっかけに目を覚ます。前世では、江戸から明治にかけて生きていた「寸一」という行者だったので、
「そういえば、僕が寸一だった時のことですが……」
という前置きから、昔語りが始まるのだった。
ハヤさんと暮らしている私にとって、普段の会話のなかに突然、生き生きとした昔話が混ざりこむのは珍しいことではない。
今日も、買い物袋から食材を取り出しながら、
「このタマネギ、橋の欄干に飾ってある擬宝珠(ギボウシュ)、それともギボシだったかしら? あれにそっくり」
「そうですね、なんとも立派なタマネギだ」
「擬宝珠って橋だけじゃなくて神社やお寺でも見かけるけど、ただの飾りではなくて、なにか特別な意味がありそうね」
「ああ、確か魔除けになるとか──。僕が寸一だった時に聞いた話ですけれどね」
▽ ▼ △ ▼ ▽
長い修行の旅から帰る途中、寸一は橋のたもとで甘酒を売っている老翁に声をかけられた。
「お帰りなさいませ。よい修行をなされたようですな」
その福々しい顔には見覚えがあり、往路で甘酒を振る舞われ、話し込んだことを思い出す。甘酒屋を営むかたわら、橋番の役目も買って出ているというひとであった。
橋の名は、みずち橋。さほど大きな橋ではないが、人の往来は多い。
老翁は、悪ふざけが過ぎる子供を叱り、身投げを企てる娘は思い止まらせ、若い者の喧嘩も手際よく仲裁するなどして、厄介事が起きぬよう目を配っているのだった。
寸一は笑みを浮かべて挨拶を返し、促されるまま店先の縁台に腰を下ろした。
すると目に付くのは、橋の親柱に輝く真新しい擬宝珠である。前に通った時には、無かったはずのものだ。聞けば、川向こうの町で店を構える商家の寄進により、取り付けられたばかりだという。
「これについては、わたしも一役買っておりまして──」と、老翁は顔をほころばせた。
擬宝珠を寄進した商家には、信吉という跡取り息子がおり、父親の供をして度々こちらの町を訪れていたそうだ。
ある時、みずち橋を渡っていて若い女と目が合った。髪を長く垂らした女で、欄干にもたれるように立ったまま、信吉を見てあでやかに笑う。はっとして目を伏せ、足早に通り過ぎたが、後ろ髪を引かれて振り返ると、女はこちらにひたと目を据えていた。
その夜から、立て続けに同じ夢を見るようになった。
夢に現れるのは橋の上で会った女で、近々と顔を寄せ「つぎの満月の晩に、みずち橋へおいで……」などと繰り返し囁く。
毎夜、うなされて目を覚ましていた信吉は、やがて、何ものかに引きずられるように、満月が照らすみずち橋までやってきたのだった。
夕暮れ時、見るからに若旦那といった身なりの男が、青い顔で橋の上を行ったり来たりしているのだから、甘酒屋の老主人の目に留まらぬわけがない。
ちょうど店仕舞いを済ませたところだったが、呼び止めて話をするうちに、放っておけることではないとわかった。
「この川には、百年も生きて化け方を覚えたという、かわうそが棲んでおりましてな、時おり悪さをするのですよ」
おそらく信吉を操っている女の正体も、かわうそが化けたものであろう。
そこで信吉と共に、店先へ立てかけたよしずの陰に身をひそめ、みずち橋を見張ることにしたのだった。
日が落ちて人通りも途絶え、川の流れる音だけが響く頃。
橋の中ほど、薄暗闇からにじみ出るように長い髪の女が現れた。首を揺らして左右を見回し、せわし気に舌打ちながら佇む様子がいかにも怪しい。
老翁はおもむろに立ち上がり、よしずを払いのけて飛び出すや、
「そこで何をしておる!」と、大音声で呼ばわった。
女はよほど驚いたとみえ、己の背丈ほども飛び上がり、そのまま欄干の向こうへ姿を消した。さぶりと水音がする。
「やはり、かわうそがいたずらを仕掛けておったようですな」
笑いながら振り返ると、信吉は腰を抜かしてへたり込んでいた。
信吉の父母は、大事な跡取り息子が化け物に目を付けられたと知り、たいそう慌てふためいた。後難を恐れて菩提寺の和尚に相談したところ、魔除けの力を持つ擬宝珠の寄進を勧められたそうだ。
この和尚、甘酒屋の老翁とは長年の碁敵らしい。
「冗談好きな和尚なので、うそかまことかわかりませぬが、擬宝珠だけでは心もとないゆえ、みずち橋のかわうそにもよくよく言い聞かせておいたと、笑っておりました」
「なるほど、かわうそ相手に説教をされたと?」
「はい。──おまえはからかって遊んでいるつもりでも、一つ間違えば人から憎まれ、大変な目に合うかも知れぬ。遊ぶならもっと上手に遊べよ──と諭したそうでございます」
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聞き終えて、私は深くうなずいた。
「かわうその気持ち、わかる気がする。化け方を覚えたら化けたくなるし、人間をからかって遊ぶのはさぞ楽しいでしょうね」
ハヤさんは苦笑している。
「実は後日談があるんですよ。このことがあってから二十年後にまた、旅の途中でみずち橋を渡る機会がありました。橋のたもとの甘酒屋はもう跡形もなかったのですが──」
橋の上では、ちょっとしたさわぎが起こっていた。どうやら、つまずいてころんだ老女を、通りがかりの人が介抱しているらしい。受け答えしている老女の声はしっかりしているが、すぐに立ち上がるのは無理な様子だ。
手を貸そうとして近寄った寸一は、老女を背負って人だかりから抜け出てきた人物の顔を見て驚いた。介抱していたのは、あの甘酒屋の老主人で、二十年前とまったく変わらぬ姿だったのである。
老翁は道の端の木陰に老女を下ろすと、その辺で遊んでいる子供を呼び寄せ、
「この先の味噌問屋まで駆けていき、ご隠居さまを迎えに来るよう言っておいで」
と頼んでいる。ころんだ老女は味噌問屋の女隠居なのだろう。
しばらくは女隠居の話し相手をしていた老翁だが、先程の子供が味噌問屋の人びとを連れて戻ってくるのを見て、いずこへともなく姿を消した。
「これって、二つに一つだと思うんですよね。甘酒屋のご主人が、亡くなった後もなお、みずち橋の守り神になって橋番を続けているのか、それとも、かわうそが人から憎まれないような上手い遊び方を覚えたのか……。瑞樹さん、どっちだと思いますか?」
と、ハヤさんは私に問いかけた。