ハヤさんの珈琲店には、店名の入った小さな看板があり、外が暗くなるとLEDの灯がともる。
タイムスイッチによる自動点灯で、徐々に日没が早くなる時期には、すぐ気づいてタイマーの設定時刻を変えるのだが、日が長くなる場合は忘れがちだった。
「まだ日が暮れていないのに点く明かりって、なんだか『もののあはれ』を感じる」
つぶやくと、ハヤさんは「えっ?」という表情で、私を見た。
「僕は光熱費の無駄使いが気になります。LEDだから、微々たるものなんですけれどね」
私のほうこそ、(えっ?)だった。
江戸から明治にかけての時代に、行者として生きていた前世の記憶を持ち、折に触れ昔語りをしてくれるハヤさんには、あまりそぐわない発言だ。
(いやいや、店舗経営者として、とても健全で大切な感覚よね。経費削減は小さなことの積み重ねだもの。お客様へのサービスは別みたいだけど……)
私の胸のうちを知るはずもないハヤさんは、
「火を点すといえば、僕が寸一だったころ──」
といって、静かに昔語りを始める。
△ ▲ △ ▲ △
深く心を通わせている若者と娘がいた。
しかし、それぞれの家でただ一人の跡継ぎだったため、連れ添える望みは無いとわかっていた。
家を捨てることはできず、かといって、恋を諦めることもできない。行き先の見えない闇の中では、互いを思う心だけが、すべてになる。
(今日も変わらず、あなたを思っている)
そのことを伝え合わずには、一日も過ごせないほどだったので、二人はひそかな約束を交わした。
娘の家の近くに、古い池がある。
池の中ほどには、石を組んで出来た小さな島があった。そこに、水神を祀る祠が設けられていて、細い橋が架かっている。
日が落ちて暗くなると、娘は家を抜け出し、橋を渡って祠に向かった。祠のなかには、若者が供えた高価な絵ろうそくが立っている。
真心の証しとして、娘はろうそくに火を点した。
足早に家に戻った娘は、突き出し窓の隙間から、暗い池に灯る明かりを見守った。
ほどなくして若者が橋を渡り、小さく燃える灯を消しに来る。その瞬間を見届けるまで、身じろぎもせずに待ち続けるのだった。
二人だけにわかる合図は、同時に、ひたむきな願掛けでもあった。夜毎にわずかずつ短くなっていく絵ろうそくに、儚い願いを託したのだ。
ところが、ろうそくより早く、娘の命が燃え尽きそうになった。
若者の家に縁談が持ち込まれたという噂を聞き、張りつめていた心の糸が切れてしまったのだ。病の重さは、呼ばれた医者が眉をひそめるほどだった。
寝床から身を起こすこともままならない娘は、涙の枯れた眼で、うつろに宙を見つめていた。
(もはや、ろうそくに火を点しに行くこともできない。あの人は、私が心変わりしたと思い、縁談を受けてしまうだろう)
しかし、若者の決意は固かった。
持ち込まれた縁談を断り、訳を問いただす両親に、ついに娘のことを打ち明けたのだ。治る見込みのない病だと聞かされても、頑として気持ちを変えず、
「万が一、あの人が亡くなるようなことがあったら、出家して菩提を弔いながら一生を終えます」
とまで、言ってのけた。
花嫁衣裳をまとった娘は、歩くことができず、輿で運ばれて嫁入りをしたが、その白くやつれた顔は、喜びで輝いていた。
△ ▲ △ ▲ △
私が何も言わないうちに、ハヤさんは答えた。
「瑞樹さん、大丈夫ですよ。病は気からとはよく言ったもので、若者と結婚した娘は、すっかり元気になり健康を取り戻しました。子宝にも恵まれて、たしか2番目に生まれた男の子が、娘の実家の後継ぎになったはずです」
「それは良かったわね! でも、今のお話には、寸一が全然出てこなかったけど?」
と、私は尋ねた。
「寸一はこの話を、若者や娘ではなく、別の当事者から聞いたんですよ。ああ、当事者といっても人ではありません。池に棲んでいた河童です」
「河童!?」
「はい、昔から独りで池を守っていた河童です。ある晩突然、寸一を訪ねてきて、火の点け方を教えてくれ、と言ったのです」
二人の恋を見守り、その行方を心から案じていた河童は、娘が病に罹って若者との約束を果たせそうもないと知ると、代わりに自分が絵ろうそくに火を点すことを考えたのだ。そして、寸一が渡した火打石の使い方を一生懸命覚え込み、池に戻っていった。
河童の働きで、娘が病で寝付いているあいだも絶えることなく、ろうそくは灯り続け、若者の決意を支えたのだった。
「河童は水の世界の生き物ですから、火への恐怖心は大きかったと思いますけれど、娘のために必死だったようです」
「……好きだったんでしょうね」
「そうですね。結婚した二人は、水神様への感謝を忘れず、よく連れ立ってお参りをしていました。その姿を見るのがつらいと言って━━」
ある夜、寸一のもとを訪れた河童は、何度も火打石のお礼を言ったあと、旅に出ることを告げた。
その後、再び池には戻らなかったという。