『真実の顔を映す鏡』というものを見てきた。
普段、私たちが鏡のなかで見慣れているのは、左右反対の顔だ。それを反転して映す鏡がリバーサル・ミラー「反転鏡」で、一般に販売もされている。たまたま立ち寄った店で見掛け、興味津々でのぞき込んだのだった。
外出から戻り、ハヤさんに報告すると、
「ずいぶん違って見えましたか?」と聞かれた。
「それほどでもなかった。期待が大きすぎたのかしら」
「文字だって鏡に映すと、印象が大きく変わって見える字と、ほとんど変わらない字とに分かれますよね。例えば瑞樹さんの『樹』と、同じキでもモクのほうの『木』とか……」
話している途中で、江戸から明治にかけて行者として過ごした前世の記憶がよみがえったらしく、ハヤさんはふと言葉を途切らせ、おもむろに昔語りを始めた。
「そういえば、僕が昔、寸一だった頃──」
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誰にも言えぬまま、心に重荷を抱える者は、カガミ沼に引き付けられるという。
底知れない沼のほとりに立ち、水鏡に映った己の影と出会う。逆さまに浮かぶその姿は、ひどくゆがんで見えるのだそうだ。
後悔と恨みが凝り固まった醜い顔。それでも目を背けずに踏み止まっていると、やがて、沼底から白く光る大蛇が現れ、水影を一息に吞み込んでしまう。
すると、憑き物が落ちたように、心中が平らかになるというのだ。
余程の事がなければ、自ら進んで、そのような恐ろしい目に遭いに行く者はいない。
寸一も、嘉兵衛から請われるまで、カガミ沼に足を向けたことはなかった。
名主の家柄に生まれ、村の人々からの信望も厚い嘉兵衛だが、どうしたはずみか気の病を患うようになった。
独り考えあぐねたすえ、ある日、カガミ沼へ向かったという。
水面に映るおぼろげな影に、ひたすら目を凝らす。
どれほど時が経ったのか判然としなくなった頃、突如として、はっきりと顔が見えてきた。
「しかし、噂に聞いていたようなものではありませんでした」
嘉兵衛は声をひそめ、寸一に語った。
「たしかに私の顔でありながら、とてもそうとは思えない。それほど、福々しい恵比須顔だったのです。しかも、しきりに話しかけてくるのですが━━」
水鏡に映った恵比須顔の口から出てきたのは、すべて、嘉兵衛に向けたほめ言葉だった。ほめて、ほめて、ほめちぎった、という。
「初めのうちは、狐狸の類に化かされているのかと疑いましたが、亡き母さえ知らないはずの昔の出来事や、自分でも忘れていたようなささいな行いまでほめられているうちに、どうにも泣けてきて困りました」
白い大蛇が現れることはないまま、日が暮れ始め、水影は薄闇に溶けて消えた。
以来、不思議なほど胸の内が明るくなったそうだ。
末の娘などは嬉しそうに、
「いつも噛みしめていた苦虫がいなくなった」と、言っている。
心穏やかな日々の有り難さを身にしみて感じるにつれ、生真面目な嘉兵衛は、カガミ沼の主へ返礼をしていないことが気になった。
かつては若い娘を人身御供としたのだとか、そんな痛ましい話も伝え聞くが、もう大昔のことだ。
「ならば代わりに、美しい絵姿を描いて奉るのが良いのではないかと思い立ちまして、慣れぬ絵筆に四苦八苦していたところ、見かねた末娘が手伝ってくれました」
気恥ずかしげに言い、絵を広げてみせる。
「これはこれは、見事な出来栄えではありませんか」
寸一は感心した。
「顔を突き合わせて描いたせいか、姿かたちが娘に似てしまい、それがまた、気がかりでもあるのです。万が一、沼の主様に気に入られて神隠しにあったら……」
それならば、ということで、寸一は嘉兵衛に同行しカガミ沼へ赴いた。
静かな沼だ。
遥か昔、神が村を救い、村人が生贄を差し出した。
繰り返されるうちに、娘を奪われた怨嗟の声が上がり始め、いつしか、神であったはずのものが、退治されるべき化け物と見なされた。
そのような深く荒々しい係わりも、時の流れと共に薄れ、今では淡い気配が漂っているばかりだ。
寸一にうながされるまま、嘉兵衛は娘によく似た絵姿を沼に浮かべ、
「足腰の立つ限り、毎年御礼に参ります」
と、手を合わせ深々と頭を下げる。
絵は、水の面をゆっくりと滑るように動いていき、沼の中ほどで沈んだ。
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私は聞かずにはいられなかった。
「寸一の判断を疑うわけではないけれど、その後、末の娘さんは大丈夫だったの?」
「はい。それどころか、間もなく良縁に恵まれてお嫁に行きました。こういうことは誰とはなしに伝わっていくらしく、いつしか嘉兵衛さんのもとには、絵姿を沼の主に奉納してもらいたいというモデル志願の娘さんが、次から次へと訪れるようになったそうです」
「あらまあ……」
「何年かたって、寸一が嘉兵衛さんと顔を合わせたときには、すっかり福々しい恵比須顔になっていたとか」
笑いながら、つくづくとハヤさんの顔をながめる。
思えば、私たちはよく話をするので、鏡に映る自分の顔より、ずっと長く相手の顔を見ているのだ。
私の視線を感じたハヤさんは、何か誤解したようで、
「よかったら、瑞樹さんのことをほめちぎりましょうか」
と、言った。