外出から戻ると、ハヤさんが私の顔を見て、
「お帰りなさい。何かありましたか?」
と、聞いた。
「あら、そんなに剣呑な顔つきかしら?」
「というより、すごく無表情だったので……」
私は思わず苦笑する。
「打ち合わせの相手が、慇懃無礼を絵に描いたような物言いをする人でねえ。社会人スマイルを張り付けて応対していたから、表情筋がすっかり固まってしまったわ」
ハヤさんは少し考えてから、
「それなら、ホットチョコレートかな」
と言って、作り始めた。
処方は大当たりで、私の顔は即座に緩んだのだった。
「人が口にする言葉というものは、毒にも薬にもなりますよね。そういえば、僕が寸一だった頃の話ですが━━」
ハヤさんは、江戸から明治にかけて「寸一」という行者だった前世の記憶をたどり始めた。
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この度、寺の世話役に選ばれた理之助が、妻女のちかを伴って寸一の居室を訪れた。
寄宿している行者にまで、丁寧な挨拶をするところに人柄が偲ばれる。 ちかもまた、理之助に輪をかけてよく出来た人物だった。
しばらく和やかに談笑していたが、ふと、理之助が眉をくもらせて問い掛ける。
「寸一さん、常盤木がいっせいに葉を落とすというのは、どうしたことでしょうか。植木屋に見せても首をひねるばかり。何か異変の前触れではないかと案じております」
「その木とは?」
「庭のマサキでございます。実は、半年ほど前にも、別のマサキが落葉しまして。その折は、さほど気に留めていなかったのですが……」
庭の木が枯れると家運が傾く、という言い伝えもある。
寸一は見分を申し出た。
理之助は檀家の寄り合いがあるというので、ちかが寸一を案内した。
落葉し裸木となったマサキは哀れな姿であったが、悪い気を感じることはなく、すでに新芽も出始めている。
ゆっくりと木を調べている最中、驚いたことに、ちかが深々と頭を下げたのだった。
「お許しくださいませ。この木の葉を落としたのは、私の仕業でございます」
常日頃、賢く気を遣いながらも、奥ゆかしさを忘れないちかであるが、いつとはなしに胸に溜めこんだ愚痴を、庭の木に向かってこぼしていたのだ。半年ほど前、そのマサキの葉が落ちた。偶々の出来事と考え、別の木に変えて続けていたところ、またもや落葉したのだという。
罪人のようにうなだれるちかに、
「物言わぬは腹ふくるるわざなり。これからは私が、このマサキの代わりを務めよう」
と、寸一は言った。
世話役の妻女というものは、寺に出向く用事が多い。
帰りがけ、ちかは寸一と話をしていくようになった。
本堂の隅や縁側で、一杯の茶を喫するほどの短い間に、小言、文句、恨み言の数々を息もつかずに語り尽くす。けっして大きな声ではなかったが、その勢いは雨あられのようであった。
寸一は、常に変わらず緑の葉を揺らす常盤木の心持ちで、静かに耳を傾け続けた。
三月ほど経った頃、ちかが不思議そうに言う。
「寸一さんは、相槌を打つわけでもなく、こちらに目を向けるわけでもないのに、言い分が聞き届けられているとわかります。有難いことです」
さらに三月ほどすると、
「こんなに愚痴を聞かせて、マサキが葉を落としたように、寸一さんの髪が抜け落ちて丸坊主になってしまわれたら、いかが致しましょう」
などと、剃髪頭の寸一に向かい、冗談を口にするようになった。
ある朝のこと。
境内の庭掃除をしている寸一のところへ、駆け寄るようにやって来たちかは、
「昨夜初めて、理之助を相手に口喧嘩をいたしました」
と、清々しい顔で告げた。
この日をもって、寸一のマサキ代わりは、お役御免となったのだ。
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「おちかさんが、ほんとうに話を聞いてもらいたかった相手は、理之助さんだったのね」
私の言葉に、ハヤさんはうなずいた。
「そうですね。本音というのは、闇雲にぶつければいいものではなく、伝え方が重要です。寸一は、その練習台になったわけですよ」
「延々と愚痴を聞かされるのは、寸一にとっても、かなりの難行だったんじゃない?」
「常緑樹のマサキが、いっせいに葉を落とすくらいのストレスですからね。けれど、滝に打たれるばかりが修行じゃありません」
喧嘩ひとつしないということは、もしかしたら、どちらかが気まずさを避けるため、我慢しているのかもしれない。
私はちょっと心配になった。
ハヤさんと私は、喧嘩らしい喧嘩をしたことがなかったからだ。
思わず、窓際に置いてある観葉植物に目を向けると、ハヤさんもまた、振り返って同じ鉢植えを確かめていた。