かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

崇徳院の和歌

 

ラジオで古典落語の『崇徳院(すとくいん)』を聴く機会がありました。昭和の名人、三代目桂三木助の録音です。その後、YouTube志ん朝の『崇徳院』も聴きました。

 

出入りしている商家の旦那に呼ばれてやってきた熊五郎は、若旦那が寝込んでいることを知らされます。医者の見立てでは気の病らしく、このまま放っておけば、もって5日の命らしい。

誰が聞いても心の内を明かさない若旦那ですが、熊五郎になら話してもよいというので、急遽呼び出されたわけです。

さっそく若旦那の部屋へ行って聞いてみると、病の正体は恋わずらいでした。

 

二十日ほど前、上野の清水観音堂へお参りした若旦那は、茶店で綺麗なお嬢さんを見初めました。お供の女中を連れたお嬢さんが、茶袱紗を落としたのにも気づかず、店から出て行こうとしたので、追いかけて手渡します。

そこで、お嬢さんから短冊をもらうのですが、書いてあったのは、

 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の

という、和歌の上の句でした。

小倉百人一首、第77首目の崇徳院の歌です。

下の句は、

 われてもすゑに 逢はむとぞ思ふ

 

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川の浅瀬の流れが速いので、岩に堰き止められた急流は離れ離れに分かれてしまうけれど、それでもさいごには再び、一緒になろうと思う。

 「逢はむとぞ思ふ」の「ぞ」+連体形は、中学校の古文で教わる、強意・強調の「係り結び」です。滝川の流れという自然現象に託して心情を描きつつ、末句で湧き上がってくる純粋な意志が胸を打ちます。

 

お相手のお嬢さんもまた恋心を抱き、再会を願っていることが短冊から読み取れるのですが、若旦那は呆然としていて、その場で名前すら尋ねることができませんでした。

崇徳院の和歌だけを手掛かりに、町じゅうを捜しまわる熊五郎の奮闘ぶりが、笑いを呼ぶ噺です。

 

ところで、この「崇徳院さま」ですが、菅原道真平将門と共に「日本三大怨霊」と言われている人物の一人でもあります。

 

 

崇徳院(1119~1164)は、鳥羽天皇の第一皇子として誕生し、1123年に幼くして天皇に即位、1141年には上皇である鳥羽院から譲位を迫られて皇位を去ります。

そして平安時代末期の1156年、保元の乱で同母弟の後白河天皇に敗れて讃岐へ配流され、その地で崩御しました。

 

保元物語』(1220~30年代頃に成立)によれば、讃岐に流された崇徳院の望郷の念は強く、3年かかって五部大乗経を書写し、京の寺に納めてほしいと朝廷に差し出します。ところが後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑い、写本を送り返しました。
憤怒した崇徳院は舌先をかみ切り、自らの血で写本に「日本国ノ大悪魔」となることをしたため、それから後は髪の毛も整えず、爪も切らずに、生きながら天狗の姿になって祟りを引き起こしたと記されています。

 

しかし、著者の山田雄司さんは、『保元物語』に記されている崇徳院自筆の五部大乗経は、おそらくもともと存在しなかったのではないかと考えています。

五部大乗経の写本の存在を語る唯一の史料は『吉記』寿永二年(1183年)七月十六日条で、崇徳院崩御してから19年後のことです。それまで実際にこの写本を見たという人物はなく、記録も見つかっていません。

『今鏡』(1170年頃成立)「すべらぎの中第二 八重の潮路」によれば、崇徳院は剃髪して、女房の兵衛佐局とその他の女房一人二人だけで配所での寂しい日々を過ごし、憂き世の悲しさのあまりか病気も年々重くなり亡くなったというのみで、五部大乗経や怨霊の話は全く登場しません。

 

 さらに、崇徳院が讃岐配流中に詠んだ歌からも、こうした崇徳院の姿が実像ではないかと想像される。先に紹介した『風雅和歌集』巻第九「旅歌」には、寂然(藤原頼業)が崇徳院と交わした歌も載せられている。〈中略〉

 

  松山へおはしまして後、都なる人のもとにつかはさせ給うける 崇徳院御歌

 思ひやれ 都はるかにおきつ波 立ちてへだてたる こゝろぼそさを(九二七)

 

 ここでは、京都から遥かに隔たった讃岐に住まざるを得なくなった状況に対して、崇徳院はたいそう心細いということを詠っている。しかし、そこからさらに発展して怨念と化すという姿勢は窺われない。

 

菅原道真は、学問の神様「天神様」として信仰されています。

平将門を祀る江戸総鎮守・神田明神は、近年ではアニメの聖地となり、たくさんのファンが巡礼しているそうです。

そして、崇徳院主祭神とする白峯神宮は、「まり(毬)の神様」としても崇敬されており、日本サッカー協会をはじめ各種スポーツにおいて使用された公式球が奉納され、競技の上達を願う参拝者が多く訪れています。

さらにまた『崇徳院』という落語が、江戸時代から現代にいたるまで笑いをもたらし続けている──。 

 日本三大怨霊、「すごいなぁ」と思いました。