長年使ってきたやかんが壊れ、ハヤさんが買い替えたのは「究極のやかん」というステンレス・ケトルだった。
工学博士が幾度となく実験を重ねて設計したそうだが、見た目は昔ながらの素朴なやかんである。
珈琲店ではなく住居用に使うのだから──、
「特におしゃれなデザインである必要はないものね」と言うと、ハヤさんは心外そうに目を見張った。
「僕は、どこに置いても調和する素敵なデザインだと思います」
値段は一般的なやかんの数倍だが、「究極代」と考えれば高くないし、何よりハヤさんが気に入っていることが一番だ。
「このやかんだと、お湯が沸くのが早いから、光熱費の節約になります。弱火なのに湯気がしっかり出るのは、熱効率が良いからなんですよね」
「なるほど」
いくら早く沸いても、そのあとで湯気に見とれていれば光熱費は変わらない気もするが、言わぬが花というものだろう。
「瑞樹さん、水蒸気と湯気の違いを知ってますか? 水蒸気は気体で無色透明なんです。湯気は水蒸気が冷えて液体にもどった状態ですが、液体といっても小さな粒状なので、光を拡散させて白く見えるんですよ。ああ、それで思い出しましたが、川霧も同じ原理で発生します」
「かわぎり、というと、川にかかる霧のこと?」
「ええ、川面から蒸発した水蒸気が、冷たい空気に触れて発生する蒸気霧です。見慣れた風景が一変して、とても幻想的な眺めになるんですよ」
「いいなあ、見たことあるのね」
すると、ハヤさんは少し笑って答えた。
「僕が見たのは、寸一だったときのことですけれど──」
江戸から明治にかけて、「寸一」という行者だった前世の記憶を持つ、ハヤさんの昔語りが始まる。
△ ▲ △ ▲ △
ここ数日の暖かさが嘘のように、冷え込みの厳しい朝だ。
夜通しかかった用事を済ませ、帰路を急いでいた寸一は、思わず足を止めた。
「川霧か、これは珍しい」
斜面を駆け下って岸辺まで行く。川の面に立ちこめる霧は朝日に染まり、やわらかく輝いていた。
「昔、やはりこの場所で見たことがあったな。あれから十年、いや十五年近く経っているのではないか……」
その折、共に景色を眺めた旅籠の老女将は、すでにこの世の人ではない。
「寸一さんではありませんか」という声に振り返ると、いつもはしっかり者の女将が、はにかんだような笑顔で頭を下げたことを思い出す。
「これはこれは女将さん、奇遇なことですね」
「ほんとうに。こうしてご一緒できるとは有り難い限りです。私は川霧を目当てによくここへ参りますが、一度でいいから、どなたかに見てもらいたいと願っておりました。それ、あの辺りなのですが──」
と、女将は向こう岸の一点を指差した。
聞けば、霧に浮かぶ木立のなかの一本が、若くして亡くなった亭主の立ち姿そっくりに見えるという。
「いったいどうした加減でしょうか。普段見ればただの木なのに、霧越しに眺めると、頭のかしげ方といい、肩のいかり方といい、あの人にしか見えません」
寸一は女将の亭主と会ったことはない。似ているかどうかはわからぬものの、寸一の目にも、それは人の形に見て取れた。
そう伝えると女将は、嬉しげに頬を染めた。
「やはり、そうですか。右の手に、大きな花を提げていますでしょう。あれは牡丹かしらと、いつも思うのです」
実際には、右腕に見える枝が左より長く、先がふくらんでいるだけだが、
「寒牡丹ですかな」
と、寸一は答えた。
亭主に先立たれ、幼子を抱えて旅籠を切り盛りするのは、並大抵の苦労ではなかったろう。それでも、毎年この時季に現れ、向こう岸で花を手に見守る姿が、女将を支え続けたのだ。
たとえ幻であったとしても、信じる心は人を強くする。
(あの旅籠も、今や孫娘が女将となり繁盛を続けていると聞く。老女将も苦労の甲斐があったというものだな。さて、ご亭主の木が立っていたのは、どの辺りだったろうか)
寸一は、老女将の笑顔を思い浮かべながら、霧越しに川の向こうを見渡した。
「おお!」
我知らず声を上げる。
長い年月の間に、景色は様変わりしたようだ。
今では、人の形に見える木が二本並び、寒牡丹らしき花は小柄な方の手に移っていた。
△ ▲ △ ▲ △
「このやかん、ちょっと持ち上げてみてくれませんか」
言われたとおりにして、「おや?」と思った。予想したより軽かったのだ。
私の表情を見て、ハヤさんが解説する。
「ずいぶん軽く感じるでしょう。でも本体の重さや容量は、前のやかんと変わらないんですよ。取っ手の形状や角度など、持ちやすさが考え抜かれているからなんです」
実際の重さは変わらないのに、楽々と扱える。使う人への行き届いた心遣いは、熱効率より私の胸を打った。
「さすがは、究極のやかん」
私の言葉に、ハヤさんは我が意を得たりとうなずく。