ハヤさんの珈琲店では、2月限定のホットチョコレートが、隠れた人気メニューになっている。
「ちょっとした贅沢を味わえる」
と、普段はブラックコーヒー派のお得意様に大好評なのだ。
ホットチョコレートは、駅前の洋菓子店でパティシエをしている妹さんから伝授されたレシピで作っていて、材料費と手間を考えると、コーヒーより割高ながらも、かなりのサービス価格らしい。
「喜んでもらえればそれでいいんです。特に男性はなかなか、自分へのご褒美として、高級なバレンタインチョコレートを買うなんて出来ませんからね」
ハヤさんは優しい目で言う。
(バレンタインチョコ、女性からもらえばいいのでは?)
などと受け返せる雰囲気ではないので、私は静かにホットチョコレートを味わいながら、ハヤさんが前世で寸一という行者だったときの話を聞くことにする。
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笹木家は古くから続く家柄であったが、跡継ぎが絶え、やむを得ず家をたたむことになった。
さいごの当主となった高齢の女あるじは、親しい縁者の元へ身を寄せるという。土地を離れる前に、寸一が寄宿している寺を訪ねて来て、ウチガミさまを託していった。
ウチガミさまとは、旧家に多く祀られている、家の神のことだ。
大抵は男女一対の木彫りの人形をご神体としているが、寸一に預けられたのは、独り神であった。
「お伺いを立てましたところ、この土地に残ると答えられたので、当地の分家筋に声をかけておきました」
と、しっかり者の女あるじは言う。
家の神としてお迎えしたいと申し出る者があれば、ウチガミさまのご意向を確かめた上で、渡すように頼まれた。
気難しいウチガミさまの話はよく耳にするが、笹木家の独り神から感じ取れるのは、子供のような無邪気さであった。
半月ほどして、
「ぜひ、我が家へ」と願い出たのは、弥次郎という若い男だ。
しきりに「商売繁盛」や「ご利益」を口にする弥次郎であったけれども、寸一が伺いを立てると、ウチガミさまは屈託なく、共に行くことに同意したのだった。
ところが、一年も経たぬうちに、ウチガミさまは戻されることになる。
女房と連れ立ってやってきた弥次郎を見て、寸一は驚いた。
ずいぶんと面変わりしていたのだ。鋭かった目付きは柔和になり、心底満ち足りたように微笑んでいる。
「前に、こちらのお寺で『足るを知る』という講話を聞きました。そのときは、あまり気に留めていませんでしたが、今ならよくわかります。思えば昔は、いつも急き立てられているようで、あくせくするばかり、心が休まるということがなかった」
一方、赤ん坊を背負った女房は困り顔だった。
「こんなにも、欲というものが抜け落ちてしまったのでは、商売になりません。働けば働くほど、立ち行かなくなるのです」
うつむいて声をひそめ、
「これではまるで……、貧乏神を迎えたようだ」と呟く。
「お前、なんと罰当たりなことを」
うろたえた弥次郎がたしなめると、女房に加勢するかのように、赤ん坊が泣き出した。
当分のあいだ、笹木家のウチガミさまは、寸一の居室に安置されることになった。
弥次郎の商売も、その後なんとか持ち直したようだ。
それでも時折、ウチガミさまが恋しくなるのか、女房に内緒でやって来る。
しばらくそばに居れば気が晴れるらしく、寸一に礼を言うと、清々としたようすで帰っていくのだった。
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聞き終わって、少しだけ気になる点があった。
「結局、そのウチガミさまは、ずっと寸一のところで預かっていたの?」
「そうです。弥次郎のことが噂になってしまったのか、ほかの分家筋の人たちからも、家の神として迎えたいという話は出ませんでした」
「ひょっとして、そのままハヤさんが引き継いで持っていたりしないよね?」
恐る恐る尋ねた。
「いいえ、僕が受け継いだのは、昔語りの記憶だけですよ」
ハヤさんの答えに、私はひと安心したのだった。