かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

仕事納め

 

今日が、令和初の仕事納めでした。

先週の金曜日から休みに入っている従業員が多く、閑散としたオフィスで、今年のこと、来年のことなど考えながら、一日を過ごしました(仕事もしました)。

 

 記念写真

皆が休んでいるなか出勤とは殊勝である、ということで、会社の偉い人がお昼をご馳走してくれるのが、ここ数年のイベントになっています。

 

今年は記念に写真を撮ってみました。大きい海老なので、イベント感あります。

f:id:toikimi:20191230121709j:plain

 

 

 家計簿ソフト

来年は家計簿をつけようと思い、フリーソフトを探したところ、まさに打って付けのものを見つけました。

その名も、個人主義的小遣い帳:収入や支出を費目、内訳、金額、備考の4項目で整理し、収入・支出・残高を管理できる家計簿的、お小遣い帳ソフトです。

f:id:toikimi:20191227143524p:plain

個人主義的小遣い帳 - メイン画面

 

「いまサイフの中にはいくらあるか」「どこで何にいくら使ったか」を押さえておくことを目的として作成されたソフトなので、機能や項目が多すぎず、コンパクトなメイン画面で直感的に操作できるため、気楽に続けられそうです。

 

 

 ゲシュタルトの祈り

今年は一度も、ゲシュタルト療法のワークショップに参加できませんでした。

予定を入れ、申し込みまで済ませたのに、親戚の不幸や突発的な病気でキャンセルということが続きました。

そればかりか、振り返ればブログにも、ゲシュタルト関連の記事を書いていません。

 

英語に詳しくありませんが、「unlearn」という言葉が浮かびました。

「脱学習」とか「学びほぐし」などと訳されています。

学んだことを改めて問い直し、時にはいったん放棄し、自分のやり方で心に収め直す、という意味があるそうです。

思えば3年ほど、ゲシュタルトにどっぷり浸かって過ごしましたから、そろそろ「unlearn」の時期に入ったのかもしれません。

私はゲシュタルトを、セラピーというより生き方だと思っているので、ワークショップに参加することだけがすべてではない、ともいえます。

 

原点に立ち返って──、

  ゲシュタルトの祈り

私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。

私はあなたの期待にそうために、この世に生きているのではない。

あなたも私の期待にそうために、この世に生きているのではない。

あなたはあなた、私は私である。

もし、たまたま私たちが出会うことがあれば、それはすばらしい。

もし出会うことがなくても、それは仕方ないことだ。

 

 フリッツ・パールズ

(百武 正嗣 著「気づきのセラピー はじめてのゲシュタルト療法」より)

 

ゲシュタルト療法とは、精神分析フレデリック(通称フリッツ)・パールズと、妻でゲシュタルト心理学者のローラ・パールズ、そして編集者のポール・グッドマンの3人によって創られた実践的な心理療法です。

ゲシュタルトの祈り」は、ゲシュタルト療法の哲学を表現した詩だといわれています。

 

この詩の最後の1行は、さまざまに受け取られていて、「冷たい」と感じる人もいれば、これこそゲシュタルトらしいと思う人もいるようです。

「もし出会うことがなくても、それもまたすばらしい」

と訳されることもあります。

私自身は、「出会わないことに、出会っている」という解釈が好きです。

 

ゲシュタルトの祈り」ですが、パールズは晩年、身近な女性たちから「無関心さを助長している」などと批判を受け、以下の2行を付け加えた、という話も残っています。

私とあなたが、私たちの基本

一緒にいてはじめて世界を変えられる

 

また、パールズの没後、弟子のタブスが発表した「パールズを超えて」という詩では、

私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。

もしそれだけならば、お互いの絆も、私たち自身も失うことになる。 

〈中略〉

心のふれあいは、成り行きまかせではない、自分から求めていったところにある。

すべての始まりは私に委ねられていて、そして、一人では完結しない。

本当のことはすべて、私とあなたとのふれあいの中にあるものだから。

 もしかしたら、タブスさんも「unlearn」されたのかもしれません。

 

ところで今年は、「ゲシュタルトの祈り」の最後の1行ではなく、ひとつ前の行、

もし、たまたま私たちが出会うことがあれば、それはすばらしい。

を実感した年でした。

はてなブログを通じての出会いに感謝、です。

 

どうぞよいお年をお迎え下さい。