今日が、令和初の仕事納めでした。
先週の金曜日から休みに入っている従業員が多く、閑散としたオフィスで、今年のこと、来年のことなど考えながら、一日を過ごしました(仕事もしました)。
記念写真
皆が休んでいるなか出勤とは殊勝である、ということで、会社の偉い人がお昼をご馳走してくれるのが、ここ数年のイベントになっています。
今年は記念に写真を撮ってみました。大きい海老なので、イベント感あります。
家計簿ソフト
来年は家計簿をつけようと思い、フリーソフトを探したところ、まさに打って付けのものを見つけました。
その名も、個人主義的小遣い帳:収入や支出を費目、内訳、金額、備考の4項目で整理し、収入・支出・残高を管理できる家計簿的、お小遣い帳ソフトです。
「いまサイフの中にはいくらあるか」「どこで何にいくら使ったか」を押さえておくことを目的として作成されたソフトなので、機能や項目が多すぎず、コンパクトなメイン画面で直感的に操作できるため、気楽に続けられそうです。
今年は一度も、ゲシュタルト療法のワークショップに参加できませんでした。
予定を入れ、申し込みまで済ませたのに、親戚の不幸や突発的な病気でキャンセルということが続きました。
そればかりか、振り返ればブログにも、ゲシュタルト関連の記事を書いていません。
英語に詳しくありませんが、「unlearn」という言葉が浮かびました。
「脱学習」とか「学びほぐし」などと訳されています。
学んだことを改めて問い直し、時にはいったん放棄し、自分のやり方で心に収め直す、という意味があるそうです。
思えば3年ほど、ゲシュタルトにどっぷり浸かって過ごしましたから、そろそろ「unlearn」の時期に入ったのかもしれません。
私はゲシュタルトを、セラピーというより生き方だと思っているので、ワークショップに参加することだけがすべてではない、ともいえます。
原点に立ち返って──、
私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。
私はあなたの期待にそうために、この世に生きているのではない。
あなたも私の期待にそうために、この世に生きているのではない。
あなたはあなた、私は私である。
もし、たまたま私たちが出会うことがあれば、それはすばらしい。
もし出会うことがなくても、それは仕方ないことだ。
フリッツ・パールズ
(百武 正嗣 著「気づきのセラピー はじめてのゲシュタルト療法」より)
ゲシュタルト療法とは、精神分析医フレデリック(通称フリッツ)・パールズと、妻でゲシュタルト心理学者のローラ・パールズ、そして編集者のポール・グッドマンの3人によって創られた実践的な心理療法です。
「ゲシュタルトの祈り」は、ゲシュタルト療法の哲学を表現した詩だといわれています。
この詩の最後の1行は、さまざまに受け取られていて、「冷たい」と感じる人もいれば、これこそゲシュタルトらしいと思う人もいるようです。
「もし出会うことがなくても、それもまたすばらしい」
と訳されることもあります。
私自身は、「出会わないことに、出会っている」という解釈が好きです。
「ゲシュタルトの祈り」ですが、パールズは晩年、身近な女性たちから「無関心さを助長している」などと批判を受け、以下の2行を付け加えた、という話も残っています。
私とあなたが、私たちの基本
一緒にいてはじめて世界を変えられる
また、パールズの没後、弟子のタブスが発表した「パールズを超えて」という詩では、
私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。
もしそれだけならば、お互いの絆も、私たち自身も失うことになる。
〈中略〉
心のふれあいは、成り行きまかせではない、自分から求めていったところにある。
すべての始まりは私に委ねられていて、そして、一人では完結しない。
本当のことはすべて、私とあなたとのふれあいの中にあるものだから。
もしかしたら、タブスさんも「unlearn」されたのかもしれません。
ところで今年は、「ゲシュタルトの祈り」の最後の1行ではなく、ひとつ前の行、
もし、たまたま私たちが出会うことがあれば、それはすばらしい。
を実感した年でした。
はてなブログを通じての出会いに感謝、です。
どうぞよいお年をお迎え下さい。