御池(みいけ)ガモは、ペット用に品種改良されたカモの一種で、ペットブームが過ぎた後、御池山公園の池に放置され半野生化した水鳥である。
公園の自然は造成されたものだ。
それでも、芝を植えた築山や、緑に囲まれた大きな池は、町なかのオアシス的存在だった。人工池に浮かぶ御池ガモも、地域住民から親しまれている。
園子は、御池山公園と同い年だ。家のそばに立派な公園が出来て喜んだ父親が、生まれてきた娘の名前に「園」という字を入れたというから、ご縁は深い。
成人して長年のあいだ家を離れていた園子だが、介護のため両親のもとへ戻り、今ではひとり気ままに生家で暮らしている。
3年前の春のこと━━。
御池山公園を散歩していたら、突然、すぐそばで1羽の御池ガモが飛び立っていった。
まさに「足元から鳥が立つ」のことわざ通りで、園子は驚いて棒立ちになった。
(ああ、びっくりした。池から離れたこんな場所で、何してたのかしら?)
と、カモが飛び出してきた場所をのぞき込む。
そこで、枯れ草を集めたような巣のなかに、数個の卵を見つけたのだった。
どうやら、卵を抱いていた母ガモを脅かしてしまったようだ。あわててその場を離れたものの、なんだか気になってしかたない。
近所をひとまわりして充分に時間を置いてから、そっと様子を見に行くと、まだ母ガモは戻っていなかった。
鳥は危険を感じると巣を放棄してしまう、と聞いたことがある。
(もしかして、私のせいで……)
自責の念にかられた園子は、公園内に掲示されている指定管理者の連絡先に電話してみた。すると、応対した担当者は慣れた口調で、
「野生鳥獣保護ボランティアに依頼して、状況を確認してもらいます。巣の位置をくわしく教えてください」
と言った。
聞けば、そのボランティアは近所に住む年配のご夫婦で、在宅していればすぐにでも駆けつけてくれるらしい。巣のなかの卵が他の生き物に狙われないか心配だったので、その場で到着を待つことにした。
それが、田中さんご夫婦との出会いだった。
今では園子もすっかり、御池ガモ里親チームの一員である。
町なかの公園という環境のためか、御池ガモが抱卵を中止してしまうケースは多く、このままでは数が減少する一方だと憂えて、田中夫妻は行動を起こした。
最初は2人だけだった保護ボランティア活動も、年月を経て、田中家を中心にゆるやかな輪が広がり、チームが作られていった。
母ガモが戻らなくなった巣から卵を保護し、孵卵器でヒナを孵して育てる。春から初夏にかけ、およそ2ヶ月のあいだ世話をして、充分に大きくなったところで御池山公園の池に返すのだ。
さらには、御池ガモが安心して子育てのできる公園を目指し、整備の提案や請願も地道に続けていた。
園子も野生鳥獣保護ボランティアに登録し、田中さんから教えを受けながら雛を育てた。
世話にはかなりの時間と労力が必要で、また、生存率もけっして高いとはいえない。心身ともに消耗するので、離れていくメンバーも少なからずいる。
けれど、新しい希望者がとぎれることはなかった。
園子と同じように、公園で母ガモを驚かせてしまったのがきっかけで、チーム入りする新人が次々と現れるからだ。
今年、園子は小型の孵卵器を買った。
温度と湿度を自動でコントロールしてくれるうえ、転卵機能も付いている優れものである。「転卵」とは、卵の中の胚が殻に癒着するのを防ぐために、一定の間隔で卵を回転させることだ。
頼りになる機器を備え、初めて自宅で卵を温めながら、園子は孵化の時が来るのを心待ちにして過ごした。
ある夜、眠る前に観察すると、卵のひとつに、ひびが入っていた。
とうとう、雛が内側からくちばしてつついて殻に穴をあける、嘴打ち(はしうち)が始まったのだ。
嘴打ちの開始から孵化までは、半日ほどかかることが多い。
園子が、里親チームの連絡網にニュースを流すと、さっそく翌日には、田中さんご夫婦が新しいメンバーを連れてやってきた。
一晩のうちに、ひびの入った卵は3つに増えていた。
ひびはかなり広がっていて、殻をつつく「コツ、コツ」という音の合い間に、小さな鳴き声も聞こえてくる。
「何度立ち会っても、孵化の瞬間は感激するのよね」
田中さんのお母さんが目を細め、お父さんも笑顔でうなずく。
新メンバーの井上君は、現在休学中の学生だと聞いたが、生き生きとした表情で卵に見入っていた。
「私、ときどき見る夢があるんですけど━━」
園子の言葉に、3人が顔をあげる。
「暗い道を歩いていると、後ろのほうから光が差してくるんです。振り返ってみると、御池ガモの雛が一列になって付いてきていて、『あっ!』と思った瞬間に目が覚めます。不思議と元気が出る夢なんですよね」
すると、田中さんご夫婦も、
「雛を連れて歩く夢は、私たちも見るよ。孫の夢より多いくらいだ」
「そうよね、娘たちが知ったら気を悪くしそうだから内緒だけど」
と、顔を見合わせて笑った。
「僕もいつか、そんな夢を見られるでしょうか?」
井上君が真顔で質問する。
「生まれて間もない雛の世話は、朝から晩まで、ほとんどかかりっきりだからねえ。毎日そうしていると、いやでも夢に出てくるさ」
「井上君も、雛のお母さんになってみればわかるわ。子育てでいっぱいいっぱいになって、他のことは考えられない。眠っているあいだも、気にかけている感じよ」
「でも大丈夫、いつでも相談にのるし、ちゃんとサポートしますから」
いっせいに話しかけられ、何度もうなずいた井上君は、再び卵に視線を戻す。
新しい世界へ通じる扉を叩くように、嘴打ちの音が大きくなった。
※ ※ ※ ※ ※ ※
ぼくは殻のなかで、外から聞こえてくるヒトの声に応えて鳴いた。
今は、ぼくたちにとって、生きるのが困難な時代だ。だからお母さんは、ヒトという大きな生き物に、ぼくたちを託したのだ。
殻をこわして出て行くまえに、お母さんが教えてくれたことを思い起こす。
外に出たら、最初に見た動くものを母親だと信じ込む。そして、鳥のこころを忘れずに、しっかりと生きのびる。
いつか必ず、もっといい時代が巡ってくる……。