ゲシュタルト療法のワークで時折、「変化の逆説」という言葉を耳にしました。
簡単に述べると、「人は、自分でない者になろうとする時ではなく、ありのままの自分になる時に変容が起こる」ということである。つまり、変容は自分あるいは他者がその人を変えようとする強制的な試みによって起こるのではなく、ありままの自分でいることに時間と努力を費やす時──自分自身の現在のありように完全にひたる時──に変容は起きるのである。
(『変容の逆説的な理論 Paradoxical Theory of Change 1970』医学博士アーノルド・R・ベイサー)
「あるべき自分」や「なりたい自分」を目指したとき、もしそれが、自己否定から始まっているのであれば、成功するとは考えにくい。今の自分を否定して、新たな人間になろうとするのではなく、今の自分を本当に受け入れたときにこそ、変化は自然に起き、「意義のある整然とした変容が可能になる」というのが、変化の逆説です。
「あなたが本当に変化したいなら、変化しないことである」
なんとなく禅的な感じがしますが、ゲシュタルト療法の創始者フレデリック(フリッツ)・パールズは、京都の大徳寺で禅の修行体験もしているので、その影響があるのかもしれません。
「主人公」という言葉は、禅語からきているといいます。
瑞巌師彦(ずいがんしげん)という禅師は、毎日、自分自身に向かって、
「主人公」と、呼びかけ、
「はい」と、自ら返事をして、さらに、
「惺々著(せいせいじゃく)=しっかり目覚めているか?」
「はい」
「ついうっかり、人に騙されるなよ」
「はい、はい」
と、自問自答していました。
自らが自らの主人公であり続けることの困難さと、その必要性を指し示す禅語です。
(『無門関』第十二則)
この「主人公」とは、禅宗でいうところの「本来の面目」(自分の本来の姿、真実の自己)だといわれています。
やはり「ありのままの自分になる」には、かなりの「時間と努力を費やす」ことが必要なのでしょう。
また、「変化」ということについて、ユング心理学者の河合隼雄さんは、
「一番生じやすいのは一八〇度の変化である」と書いています。
(『こころの処方箋』(新潮文庫)1998)
人間が変化する場に立ち合い続けていて、まず思うことは、「一番生じやすいのは一八〇度の変化である」ということである。
例としてあげられているのが、アルコール依存症の場合で、大酒飲みの人が、ある日から飲酒をピタリとやめる。皆が感心していると、あるときにまた逆転してしまう、という180度の変化です。
あるいは、自分の親のような生き方をしない、と決心した人が、その方向を20度とか30度変更するのではなく、正反対に180度の変化をしてしまう。
このような現象をイメージで表現するなら、風見鶏でときどき何かの加減でくるっと回転して反対向きになるのと似ているのではなかろうか。風が吹いているとき、それに抗して二〇度、三〇度の方向に向くよりも、一八〇度変わってしまうと楽なのである。
もちろん、容易に逆転してしまう180度の変化は無意味だ、というわけではありません。
むしろ、180度の変化が生じたからといってやたらに喜ぶことなく、逆転現象を起こして元にかえっても悲観してやけになったりせずに、「じっくり構える」ことが大切なのだといいます。
実は、このときに生じた変化によって経験したことは、その人が次に、自分の在り方と照合しつつ、あらたな方向性を見出してゆくための参考となり、その経験と心構えが、もう一度、自分の生き方について検討を始める助けになるのです。
そのときになって、われわれは一八〇度の変化は案外生じやすいものであることを話したりして、そのときに経験したことなどじっくりと話し合い、さて、次はどうするかということを共に考えてゆく。そのためには、今まで吹いていた「風」とは異なる方向の「風」の存在を探し当てねばならないし、そうなってくると変化はだんだんと本物になってくるのである。もちろん、一八〇度の変化がその人にとっては本物だということもあろう。それもじっくりと確かめているとわかることである。
「風」を捉えるときは、あまり結果を恐れないで進むこと、そして、変化を焦らず「じっくり構える」こと、このバランスが大事なようです。
河合隼雄さんは、あるとき、よくなってこれが最終回というクライアントの方から、こんなふうにお礼を言われたそうです。
「先生のおかげで、私も随分と変わりました。変わるも変わるも三六〇度も変わりました」
もちろん、この方は自分が凄く変化したことを表現したかったのだろうが、これを文字どおりに受けとめても、素晴らしい変化だと言えそうな気もした。