かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

雪娘の櫛(創作掌編)~ハヤさんの昔語り#2-9~

 

 コーヒーを淹れるお湯の適温は、83度から96度だと言われている。

 ハヤさんはコーヒー豆によって、88度か93度に分けているそうだ。

「さらに言えば、美味しく飲める温度は60度から70度なので、お客様にお出しするとき、70度以下にならないよう心掛けています。温度計で測っているわけじゃないですが、長年の経験で」

 以前、私がハヤさんの珈琲店に客として通っていたとき、テーブルに置かれた熱いコーヒーに、すぐ手を伸ばすことはなかった。

 

「実は……、冷めてしまう前にひと口だけでも飲んでいだたきたいな、と思ってました。瑞樹さんが猫舌だと知るまでの話ですけれどね」

「そうだったの、気づかなかったわ」

「ちょうど良いと感じる温度は人それぞれですから。でも、あまりにも隔たりが大きいと誤解じゃ済まなくなります。僕が寸一だったときのことですが━━」

 と、江戸から明治の時代、寸一として生きた「前世」の記憶を持つ、ハヤさんの昔語りが始まった。

 

   △ ▲ △ ▲ △

 

 四郎を可愛がってくれた叔父は独り身を通していたが、その訳を聞いたのは、亡くなる少し前のことであった。

 若い頃、叔父は家へ戻る道で、見知らぬ娘に出会ったという。

 雪の降るなか笠もかぶらず、薄い着物で佇んでいる姿が哀れで、素通りすることができずに連れて帰った。

 家で叔父の帰りを待っていた母親は驚き、囲炉裏の火を掻き立て、熱い汁物を拵えたが、娘は遠慮しているのか、囲炉裏端に近寄ろうともしない。

 それでも、ぽつりぽつりと言葉を交わすうちに、娘の人柄が伝わってくる。

「ただそこにいて、やさしく笑っているだけで、なんともいえず幸せな気持ちになったのだ。俺は娘を喜ばせたい一心で、飯も後回しにして風呂を炊いた。娘は困ったように俯いていたが、強く勧めると、ようやくうなずいてくれた」

 ところが、いつまでたっても娘は風呂から上がって来ず、湯を使う音すら聞こえない。

 心配して様子を見に行った母親が、高い声で叔父の名を呼んだ。

 駆けつけてみると、湯殿には誰もいない。

 ただ、湯船の湯のなかに、娘が差していた朱色の櫛が浮かんでいるだけだった。

 

「あれは雪娘だったのだろう。俺は悔やんでも悔やみきれなかった。火の側には寄せず、冷たい飯を食べさせ、水風呂に浸からせてやれば、共に暮らせたものを……」

 声を震わせ、涙を流す。

「俺が死んだら、棺桶に入れてくれ」

 繰り返し頼みながら、四郎に朱色の櫛を託したのだった。

 

 若者となった四郎が小夜と出会ったとき、叔父の涙と朱い櫛のことを思い出した。

(なんとしても、この娘を守らなくては……)

 と、心に決める。

 小夜は、何代にもわたり寒冷な高地に住む一族の出だった。

 四郎の嫁になるのは承知したが、夏のあいだは里帰りさせてほしいと言う。小夜は、暑さに耐えることができないのだ。

 四郎に否やは無かった。しかし、父と母はなかなか首を縦に振らない。

「何かと忙しい夏の盛りに居なくなる嫁など、聞いたことがない」

 と、顔をしかめるばかりだった。

  小夜の一族は昔、山の神様の子孫として敬われたと聞いているが、今はもう忘れ去られているようだ。 

 

 思いあぐねた四郎は、小夜を連れ、寸一のところへ知恵を借りに来たのだった。

 

 透き通るような白い顔をした小夜は、言い伝えられる雪娘の儚さではなく、明るい白銀のきらめきを持つ娘である。

 話をしてみると、不思議な力が備わっていることがわかった。

 人の体が発している熱を、目で見るようにありありと感じ取ることができ、しかも、その力を使って人を癒せるのだ。

 寸一に見せるため、小夜は四郎を床に横たわらせると、その体の上に袂から取り出した小石を置いていった。

「ここには余分な熱がこもっているから冷やす石、こちらは冷たくこわばっているから温める石……」

 つぶやきながら、いくつかの小石を置き終えて、にっこりと笑う。

「しばらくこのままにしていれば、体が楽になります」

 

 聞けば、石は山中で拾ってきたものだという。どの石にどんな効力があるのか、ひと目でわかるらしい。

 小石を載せたまま横になっている四郎の顔が、それとわかるほど和らいでくる。

 感心して褒めると、小夜は目を見張って答えた。

「たいそうなことではありません。けれど、喜んでもらえたのなら嬉しい」 

 

 寸一の助言に従い、四郎は渋る母親を説き伏せて、小夜の療治をためさせた。

 次は父親、兄弟、そして近隣の人びと──。

 

 やがて小夜は、自慢の嫁として、四郎の家で大事にされることとなった。

 

    △ ▲ △ ▲ △ 

 

「つまり、暑さに弱いのではなく、熱に対する感覚が人並みはずれて優れている、ということだったのね」

「ええ、その通りです」

 相槌を打ちながら、ハヤさんがコーヒーを淹れている。

 

「さあ、どうぞ」

 といって、私の前に置かれたのは、普段は使わない小さなデミタスカップだった。

 しかも、3つ並んでいる。

「僕は猫舌も同じだと思います。熱いのがダメというより、味覚が鋭いんですよ。だから、60度以下でも美味しく飲めるコーヒーを研究してみました。飲んで意見を聞かせてください」

 期待に満ちた目にうながされて、3つのカップのコーヒーを味わう。

 さて、困った……。

 ハヤさんのコーヒーは、いつでも同じように美味しいとしか、答えようがないのだ。