かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

桜つながり

 

桜の記事に画像を添えたいと思い、写真を撮りに行きました。

f:id:toikimi:20180326230703p:plain

慣れない撮影を済ませて振り返ると、ちょっとした人だかりが出来ていたのでびっくり。あわててその場を離れました。

 

ちょうど、お昼の12時になるところです。

f:id:toikimi:20180326230552j:plain

後から知ったのですが、桜の手前にあるのは「 江戸火消しからくり櫓」というからくり時計で、午前11時から午後7時までの間、毎時0分に動き出し、スピーカーから流れる木遣り歌に合わせて、中から出てきた人形が 「纏振込み(まといふりこみ)」や「梯子乗り」を披露するということでした。

  

この時季には、千年も昔の歌人と、心が通い合う気分にもなれます。

 ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ(紀友則

 ねがはくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ(西行法師)

西行法師は1190年3月31日(陰暦2月16日)に入寂したといわれており、まさに如月の満月の頃、だったわけです。

 

不勉強のため、俳句の方はすぐに思い浮かばないので、ネット検索してみました。

 散る桜 残る桜も 散る桜 (良寛和尚)

 さまざまのこと思い出す桜かな(松尾芭蕉

 

ほんとうに、さまざまのことを思い出します。

母の晩年、車椅子を押して、定期的に主治医のいる診療所へ通いました。母と同年代のドクターは、

「今年もまた、桜の花を見ることが出来ましたね」

と、顔をほころばせていました。

 

作家・吉村昭氏の随筆集『わたしの流儀』に収録されている、~「桜」という席題~も、桜の頃に思い出すことのひとつです。

わたしの流儀 (新潮文庫)

わたしの流儀 (新潮文庫)

 

 

篤志面接員(法務省の依頼を受けて、死刑囚や長期刑囚の相談相手になる無報酬の民間人)のNさんが口にした話。

 受刑者の中には句作に気持ちの安らぎを求める人が多く、専門の俳人が指導にあたる。俳句を好む受刑者たちが刑務所内の一室に集まり、句会を催す。

 〈中略〉

 Nさんの話は、春の句会の折のことであった。

 Nさんが長期刑囚たちと、指導する俳人がくるのを部屋で待っていた。

 戸が開き、俳人が姿を現した。

 その瞬間、受刑者の間から得体の知れぬ声が噴き上げ、勢いよく立ち上がる者もいた。異様な声に、部屋の外にいた刑務官が非常事態が起こったと思ったらしく、部屋に入ってきた。

 受刑者たちは、俳人がかかえているものに視線を据えていた。眼を大きく開き、食い入るように見つめている。

 俳人は、満開の桜の花がついた枝をかかえていた。花の季節なので、俳人は句会の席題を桜にしようと考え、桜の枝を持ってきたのである。

 〈中略〉

 桜の枝は、刑務官の運び込んだ大きな花瓶二個に分けられ、挿された。

 俳人が、席題を「桜」にすると言って、句会がはじまった。

 しかし、受刑者たちは桜を見つめ、紙に鉛筆を走らせようとして視線を落としても、すぐに眼を桜に向ける。いつもは、受刑者たちは、受刑者同士、または俳人との間でなごやかに言葉を交す。が、その日はだれも口をきかず、一種おかしがたい沈黙がつづいた。

「句会にはなりませんでしたよ。句を作った人は少なく、作った句も焦点が定まらぬものばかりで、俳人の先生は失敗でした、と控室にもどってからにが笑いをしていました」

 Nさんは、思い出すような眼をして言った。

 私は、その話に桜というものが日本人には特殊な意味を持っているのを感じた。他の花では、受刑者たちはこのような激しい心の動きをしめさなかったにちがいない。

 

たしかに、桜の花が咲くということは、一種の「非常事態」なのかもしれません。 

 

桜が咲くと、頭のなかでリピートし始める歌があります。

大瀧詠一さんの『お花見メレンゲ

私が覚えているのは、底抜け感のある、ご陽気なサビの部分だけで、全体の歌詞どころか曲名すら 忘れていました。

 

1番のサビ♪

 桜咲いたッタ パッと咲いた

 咲いた(咲いた)

 

2番のサビ♪

 桜咲いた後 パッと散った

 散った(散った)

 

3番のサビ♪

 桜散っちゃった パット散った

 散った!(散った!)

 

お花見メレンゲ - 大滝詠一 - 歌詞 : 歌ネット

 

1番から3番のサビの歌詞が、その時々の桜の開花状況に合わせて繰り返されます。

3番の歌詞の頃には、花も散り、葉桜が始まります。

そして、さびしさと共に、ひと仕事終えた安堵感を覚えるのです。