春分の日も過ぎて、もう大丈夫と思っていた矢先だった。
「真冬のような寒さです。ところによっては雪が舞うかもしれません」とか、
「昨日との気温差は10度以上」など、気象情報の声がテレビからあふれてくる。
千佳は、冬のコートをクローゼットの奥から引っぱりだした。
冷えきった朝の空気に首をすくめ、歩きながらコートのポケットに手を差し入れる。
すると、何かひんやりとした小さなものが、指先に触れた。
取り出してみると、金色の指輪だった。ピンクアクアマリンのフラワーモチーフが付いた細身のリングで、去年のクリスマスシーズンに買ったものの、いつのまにか見当たらなくなっていた指輪だ。
失くしてしまったとばかり思っていた。
(こんなに寒くならなかったら、次のシーズンまでずっと見つからなかったでしょうね。春にぴったりのデザインだわ。今日は別だけど)
思いがけず置き忘れたものが返ってきたようでうれしかった。
忘れものといえば……。
子どものころ読んだ童話を思い出す。春を運んでくる女神の話だ。
春には、新しく現れるものがたくさんある。いっせいに咲きだす花、木々に芽吹く緑、土の中から出てくる虫たち――。
あまりに数が多いので、女神も一度にすべてを連れてはこられない。
忘れものを取りに、何度か春の王国へもどらなければならないのだ。
けれど、季節を空にするわけにはいかないから、代わりに冬が留守番を引き受ける。
だから春の始まりは、季節が逆もどりしたように寒い日が多い、というお話。
ポケットから見つかった金色のリングが、物語の世界とつながっているようで楽しくなった。
あくる日からはうって変わって、春爛漫の暖かさになった。
千佳は、春色のワンピースに薄手の上着をはおって出かけた。指にはもちろん、小さな石の花がきらめくリングを着けている。
やわらかな風が吹いて、自然とこころも軽くなった。
目をみはるほど、桜の開花が進んでいた。咲きそろった花の色が、青い空に映えている。
桜並木に沿って足どりをゆるめながら、ふと、気になっていたことを思い出した。
(ついこの間まで、1本だけ咲いていない桜があったはず)
規則的に並んでいるせいで、目立ってしまうのだ。
けれど、たしかこの辺だった、というところを通りすぎても、咲きそびれている桜は見当たらなかった。
(ひょっとして、春の女神が取りにもどった忘れものは、あの桜の花だったのかもしれない)
季節を行き来しながら、春は美しく豊かになっていく。
千佳の胸のなかに、生きていることの幸せが広がっていった。