『右近の桜』は、ソメイヨシノより少し遅れて咲きはじめる。八重咲きの花びらは、かすかに緑がかったクリーム色で、芯のところだけ、ほんのりとした薄紅だった。
渉が見つけた桜は、公園の目立たない片隅に植わっていた。
社会人となり、引っ越してきて間もない日曜日、春風にさそわれるように歩き続けて、満開の花と出合ったのだ。
樹名板に記された雅やかな名称は、渉に古文の授業を思い出させた。
「忘れ去られる自分より、心変わりした相手のことのほうが心配です。誓いの言葉を破ったせいで神罰が下り、命を落とすのではないかと……」
と詠んだ、平安朝の歌人。
やさしい色の花に目をうばわれたまま、そばのベンチに腰をおろした。
ゆっくりと、心が解きほぐれていく。胸もとに舞い落ちてきた花びらに向かい、我知らずほほえみかけた。
気がつけば、思いがけず長い時間を過ごしていた。
地上を離れ、やわらかな雲のなかに浮かんでいるような、花見のひとときだった。
「来年もまた、来よう」
だれに聞かせるでもなく、声に出して告げた。
偶然に始まった渉の花見は、それから毎年続いた。
普段より少し上等なお酒を持って出かけ、花を仰ぎ見ながら酔い心地になる。グラスに舞い落ちる淡いグリーンの花びらが、日々の忙しさと疲れを消し去ってくれた。
時を忘れて過ごすうちに日は傾き、ひんやりとした夕暮れの風に、夢から覚める思いがする。
「なごりおしいけど、また来年」
ところがある年、心待ちにしていた春が来て、いつものように公園を訪れると、そこはすっかり様変わりしていたのだ。
入り口には、満開の『右近の桜』を写した大きなパネルが掲げられ、
「マイタウン・ニュースで放映されました!」
と、文字が躍っている。
めずらしい桜が咲くという評判がたち、地元のネットテレビが取り上げたらしい。渉がパネルの前で呆然としている間にも、次から次へと人がやってきては、花をながめ、写真を撮っていく。
ベンチのまわりに敷かれたレジャーシートは、夜桜の宴会の場所取りだろうか。
のどやかな花見の機会は、もう取り戻せないことを思い知った。
どこをどう歩き回ったのかわからない。渉は見知らぬ居酒屋で苦い酒を飲み、夜が更けてから帰途についた。
いつもより暗く感じられる夜道で、ふと見ると、行く先に人が佇んでいる。
誰かを待っているようだ。
思わず歩みをゆるめた。街灯の光がとどかない場所だったけれど、白い服を着た胸もとから、長い髪にふちどられた顔のあたりが、照り映えたようにくっきりと見える。
「ワタル……」
と、呼びかけられてびっくりした。
知らない女の人だった。こんなに美しい人と会って、忘れてしまうはずがない。
「どなた、ですか?」
たずねる声がかすれた。渉は魅入られたように、彼女の唇が言葉を形づくるのを見つめた。
「右近」
「えっ?」
「共に参りましょう。常しえに花咲く里へ」
ほの白い打ち掛けをふわりと広げると、渉に向かって手を差し伸べる。
(ああ、そうだったのか。僕はいつも彼女と一緒に、花をながめていたんだ。だからあんなにも、満ち足りていたんだな……)
やわらかい雲につつまれて、悩みひとつなく澄み切った心地がよみがえる。
渉は歩み寄り、右近の手をとろうとした。けれど、なぜか足が動かない。何かがつなぎとめ、前に進ませまいとしているのだ。
毎日の仕事、故郷の両親、親友と交わした約束、そして、嫁いだ姉に宿っている小さな命――。
踏み出せない渉を見つめる右近の瞳に、哀れみの色が浮かぶ。渉は思わず目を伏せた。
次に顔をあげたとき、そこには誰の姿もなかった。
あれからもうすぐ、1年になる。
当たり前だと思っていた日々を大切に感じながら、渉は暮らしてきた。心のなかに大きく空いた場所を、ひとりの女性が埋めてくれた。
仕事仲間から穏やかな恋人へと変わった彼女を、渉は花見の席に招待した。
ビルの最上階にあるレストランで、窓際のテーブルからは、満開の桜並木を見渡せる。
顔をかがやかせて桜をながめる恋人に笑いかけ、渉は左側の内ポケットを服の上からそっと押さえた。プロポーズの指輪が、間違いなくそこにあるか確かめるように。
「あの公園、今年はライトアップされているのね」
細い指先が、窓ガラス越しに指し示しているのは、右近の桜が植わっている公園だ。
「あそこに、薄緑の花が咲く桜の樹があるのを知ってる?」
渉はたずねた。
彼女の家は、曾祖父の時代からこの町で商売を営んでいる。
「ええ、右近の桜でしょう。美しいけれど、昔からちょっと怖いうわさのある桜よね」
「怖い……」
「よく祖母から聞かされたわ。満開の花に夢中になった若者が、何人も行方知らずになっているんですって」
行方知らずになった若者たち。
一歩踏み出す勇気を持っていた彼らを、渉は少し、うらやましく思った。
金色に輝くシャンパンのグラスが運ばれてくる。
渉はあわてて、今いちど、左胸のポケットを確かめた。