満開の桜の下で、宴を開いている人たちの声がする。
木造2階建てアパートの敷地だった。板塀のすき間から、なごやかな雰囲気が伝わってくる。
「おめでとう」
「おめでとう」
祝福の声が、通りがかった美弥の耳にも届いた。
ゆっくりと歩き続けながら、美弥は微笑んだ。
春が来て、桜の花が咲く以外にも、何か祝うことがあるようだ。
休日に顧客の店舗まで、大事な書類を届けに行く途中だった。社会人として「はじめてのおつかい」をしている緊張が、ふっとやわらいだ。
次にまた同じ道を通ったのは、葉桜も過ぎた時季だ。
楽しげだったお花見のようすを思い出し、好奇心にかられて、アパートの表玄関の方へまわってみると、白いペンキ塗りの表札には「アマノ荘」と書いてあった。
さらに、そのわきに、
――空き室あります――
という、貼り紙がしてある。
不動産屋の連絡先を書き留めてから、美弥はその場を離れた。
絵本作家になるのが、美弥の夢だった。創作に没頭するには、ひとりの時間がたくさん必要だ。
ところが、仲のいい家族とにぎやかに暮らしていると、なかなか思い通りにはならない。会社員となり、自由な時間は少なくなる一方だから、なんとかしなければと考えていたのだ。
「ひとり暮らしをしてみようと思うの」
その日のうちに、家族に宣言した。
不動産屋で聞いたアマノ荘の評判は上々だった。
建物は古いけれど造りがしっかりしているし、花見の会ができる広い庭もある。
大家さんが1階に住んでいて、門から入ってくる不審者に目を光らせ、頼んでおけば宅配便も預かってくれるそうだ。
「オートロック、宅配BOX付きというのと変わりありませんよ。ワンルームのマンションに比べて、家賃もずっとお安いですしね。大家さんは面倒見がよくて、さっぱりとした人柄の女性です。それで、長く住んでいる入居者さんが多いのでしょう」
担当者のことばに美弥はうなずき、心配してついてきた母親も愁眉を開いて、すんなりと引っ越しは決まった。
美弥は、アマノ荘の庭を、部屋と同じくらい気に入った。
休みの日には草花をスケッチし、月の明るい夜はそっと庭へ出て見上げる。そしていつか、この庭を舞台にした物語で絵本を創り、出版することを夢見た。
庭の片隅にひっそりと佇む祠(ほこら)を見つけたのは、半月ほどたった頃だ。古く小さな祠は、掃除が行き届いていて、大切にされていることが一目でわかる。
自然と両手を合わせた。
近づく足音にふり向くと、真剣な表情で歩みよってくる大家さんと目が合った。
「お願い事しちゃった?」
心配そうに聞かれて、美弥は目をみはった。
「いいえ、ご挨拶をしていただけです」
と答えると、ほっとしたように肩で息をつく。
「おどろかせてごめんなさいね。うちの神さまはちょっと特殊だから、注意が必要なのよ。目の前では失礼だから、あちらでお話ししましょ」
気づかうように祠を見て、そっと歩き出す大家さんのあとを、興味をひかれて追いかけた。
大家さんの部屋は、庭に面して大きな窓があり、居心地がよかった。
「私は主人に先立たれてね、一人息子だけが生きがいだったの。ところが、息子は大変な自由人で、一つ所に定住するのが大嫌い。何十年も前に家を出たっきりなのよ。だから以前はよく、庭の神さまに願掛けをしたものよ。いち日も早く息子が帰ってきて、一緒に暮らせますように、って」
大家さんは話しながら、ほろ苦く笑った。
「真剣に願えば願うほど、息子はめったに帰ってこなくなった。ところが、その代わりみたいに、不動産屋さんの若いご夫婦が親身に手助けしてくれるし、入居者さんも長くいらっしゃる方が増えて、なんだか家族みたいな感じになってきたの。いつのまにか息子のことは、あの子が好きにしているのが一番だと思うようになって、待つという気持ちも、すっかり薄れてしまった。私は今、とても幸せよ」
「それは、よかったですね」
美弥はすっかり引きまれて、大家さんの話に耳をかたむけた。
「うちの神さまについて、似たような話は多いの。学生時代から10年近くここに住んでいたお嬢さんは、別れた恋人をあきらめきれず、ひそかに願掛けしていたんですって。私も後になってから聞いたのだけれど、神さまに復縁をお願いし続けているうち、しだいに彼への思いは冷めていったらしいわ。で、さばさばと自由に暮らしていたら、すぐに新しいお相手が現れて結婚したのよ。今年の4月、アマノ荘恒例のお花見は、彼女の祝賀会になったわ」
「あっ、その日に私は、偶然この近くを通りがかったんです。桜の花が満開で、『おめでとう』という声が聞こえてきました」
と、美弥が言うと、
「まあ、ご縁ねえ。その方は前に、あなたの部屋にお住まいだったのよ」
大家さんはうれしそうに目をきらめかせた。
「庭の祠のなかには、苔むした石が置かれているの。封じ込められた鬼が、祀られて神さまになったという言い伝えもあるわ。このアパートのほうが後から建ったというわけ。アマノ荘の『アマノ』は、土地の名でも、昔の地主さんの苗字でもないのよ。考えあわせて、私は確信したの」
身を乗りだして声をひそめる。
「その由来は、かつて鬼だった神さまの名前。きっと『天邪鬼』だわ」
アマノジャクな神さまにお願い事をするときは、心して臨まなければならないと、美弥は深くうなずいた。