楓さんの夫、惣吉さんは誕生日の翌朝、散歩の途中で倒れ、すぐさま病院に運ばれたが、救命治療のかいもなく帰らぬ人となった。
日本人男性の平均寿命に達して、1日も病みつくことなく、駆けつけた楓さんが見守るなか、静かに息を引き取ったのだ。
常々、惣吉さんが願っていたとおりの幕引きだった。
ただひとりの家族を失った楓さんは、葬儀から納骨まで、さまざまな手続きや役目に追われて過ごした。
振りかえってみると、嵐の中を歩いていたような日々だった。
異変が起こったのは、忌明けの朝のことだ。
朝食の用意をしていた楓さんは、炊飯器のふたを開けて目をうたがった。まるで後光が差すように、内釜の中が黄金の光につつまれている。
楓さんは、ご飯が金色に輝いて見えるようになってしまったのだ。
外食しても同じだった。他の人たちは平然としているので、楓さんの身にだけ起きている現象らしい。炊きたてのご飯の色と香りを、生きる喜びそのものと感じてきたのに、今では、まばゆい黄金色から目をそむけるしかなくなった。
パンや麺類だって好きだが、ご飯は特別なのだ。部屋を暗くして、ロウソクの明かりだけにすると、多少は金色がうすれて見えるので、そうして食べてはいたものの、すっかり食欲は失せ、日に日に力が抜けていくのがわかる。
ある日、はっと思いあたった。
(この現象は、ひょっとして)
楓さんの唯一の趣味は読書だ。いつか読んだ江戸時代の仏教説話集に入っていた、物語のひとつを思い出したのだ。
蔵に貯めこんだ大判小判の山に、魔が宿るという怪異譚だった。貪欲に金をかきあつめていた男が、魔物に苦しめられるのだが、その魔物は金色に輝き、他人の目には見えない。蔵のなかの金貨が増えるにつれ、魔物は大きく怖ろしくなっていく。
男は命を落とす寸前、通りがかった高徳の僧侶に、
「金をすべて、世のため人のために使えば、魔物は消えてなくなる」
と諭され、救われるというお話だった。
大金持ちというほどではないが、楓さんはかなりの資産を相続している。加えて、惣吉さんが掛けていた生命保険の受取金も高額だった。
説話のなかの魔物が、現代によみがえったとは思わないけれど、とうてい使いきれないほどのお金が、重大なストレス要因になっているのかもしれない。
白くつややかなご飯と、財産――。秤にかけるまでもなかった。
「だったら、こうしてはいられない」
自分に声をかけ、楓さんは立ちあがった。
専門家の協力が必要だと考えて、惣吉さんの友人でもあった弁護士に連絡をとった。ご飯が黄金色に見えることは伏せ、人生のエンディングを見据えて、資産を整理したいと相談する。
「できるだけ速やかに、そして有意義にお金を使うため、サポートをお願いしたいのです」
親戚への贈与、さまざまな寄付、広すぎる自宅は売ってしまうことにした。自分の力では動かせない重い家具も、すべて処分する。
前が嵐なら、今度はジェットコースターに乗っているような毎日だった。怖ろしいけれど、どこかに爽快感もある。
支えになってくれたのは、弁護士事務所の親身で的確な仕事ぶりと、炊くごとに少しずつ金色がうすれ、本来の美しさを取りもどしてきた、ご飯だ。
楓さんは、引退者向けのコミュニティタウンに移り住んだ。いくつかあった候補からそこを選んだ決め手は、近所に神社と図書館と小学校があることだった。
簡素な新居に落ちつき、さっそくご飯を炊いてみる。
真っ白なご飯を、塩だけのおにぎりにして、涙を流しながら食べた。
新しい町を散策すると、いつのまにか季節がめぐっていることに気づいた。
(そろそろ、一周忌法要の準備をしなくちゃね)
公園のそばにキンモクセイの樹が立っていた。散り落ちた無数の花が、朝の日差しをあびて目にあざやかだ。
(なんだか、黄金色のご飯を思い出すわ。でも残念ね、もう花の時期は終わってしまったみたい。あの、ひんやりとした甘い香りが好きなのに)
立ちどまって見つめていると、
「落し物ですか?」
と、声をかけられた。犬を連れた、楓さんと同年代の女性だ。
「いえ、私は昨日引っ越してきたんですが、もうキンモクセイが散り終わっているのを見て、がっかりしていたところです」
「それなら大丈夫ですよ。このキンモクセイは2度咲くから」
「えっ、そうなんですか」
楓さんは目をみはった。
「それほど珍しいことじゃないみたいですよ。京都の大学の先生が10年も前に、2度咲き現象の実態調査をしてるくらいだもの。2度目の花は、最初のときより数が少ないから、認知されにくいんですって。そういえば、キンモクセイの香りをトイレの芳香剤にした人を、日本をダメにした10人に入れたいと、誰かが書いていたけれど、まったく同感だわ。でも、もうかなり前から、キンモクセイの芳香剤は流行らなくなっているらしいの。今の若い方たちは、残念な刷り込みなしに、キンモクセイを楽しめるというわけね」
「……すごく、博識なんですね」
「ただの雑学、トリビアよ。昔から本が好きでねぇ。まあ、近頃はインターネットのほうが、調べものには便利だけど。あれこれ検索ワードを入れるだけで、答えが返ってくるんですもの」
陽気な笑顔で別れを告げ、犬の散歩を続ける後姿を見送りながら、楓さんの頭のなかには、
「検索ワード:新しい友だち」の文字が躍っていた。