かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

スギライト(杉石)

 

スギライト(杉石)は、癒しと浄化の力がとても強いパワーストーンとして有名です。

ラリマー、チャロアイトと共に「世界三大ヒーリングストーン」というキャッチフレーズがついていますが、今のところはまだ、日本のみで通用している「世界三大」のようです。 

   Royalazel sugilite smithsonianmuseum 

 

私は、スギライトに『杖』のイメージを持っています。

旅路を支えてくれ、辛いときにはすがることができ、時には身を守る助けにもなる。

けれど杖は杖、歩くのも、考えて選択するのも、戦うのもアナタ自身ですよ、と諭しながら、それでいて優しく頼りになるスギライトなのです。

大好きな石のひとつです。

 

美しい紫色の石として知られていますが、うぐいす色、茜色、薄紅、グレー、黒、こげ茶など、色のバリエーションは豊富です。

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英語表記は「Sugilite」なので、米国では「スジライト」とも発音されているそうですが、ここはぜひ、「ジ」ではなく「ギ」で、と願っています。 

 

私がスギライトに特別な親しみを感じるのは、
日本の岩石学者・杉健一(すぎ けんいち 1901~1948)博士によって発見され、
村上允英(むらかみ のぶひで 1923~1994)博士によって命名された鉱物だからです。

スギライトの「スギ」は杉博士の「杉」、米国宝石学会 (GIA)で公式に発表された貴石・宝石のなかで、日本人の名前がついた唯一の石だといわれています。

 

スギライトが杉博士により、愛媛県岩城島で発掘されたのは、1942年のことでした。(ちなみに「うぐいす色」)

2年後の1944年、日本鉱物学界に「未解決鉱物」として仮申請の後、岩石鉱物鉱床学誌に新種の鉱物として発表されました。

第二次世界大戦のさなかです。世界的・学術的に認められることはありませんでしたが、未来の日本岩石学へ貢献との想いが強かったようです。1943年に結核を発病し、ずっと病床についていた時期の、懸命な発表でした。

4年後、杉博士は47歳で亡くなります。

接した人のほとんどすべてが、彼のたいへん温和な人柄に感銘を受けており、その学風もまた、温和で調和的であったと評されています。

 

杉博士の研究を引き継いだのは、村上允英氏ら弟子たちでした。

1951年に開始された未解決鉱物の分析研究は、途中、当時の科学水準では分析が不可能と判断されて一時中断していた期間もありますが、高度経済成長に伴う科学の進歩による最新技術で、ついに分析に成功します。

国際新鉱物命名委員会にスギライトとして正式登録されたのは1974年 、正式認定は1975年でした。

 

発掘から命名まで、33年間ものタイムラグがある石なのです。

この間、1973年に南アフリカのウェッセルズ鉱山で発掘された紫色のスギライトが、「ウェッセルサイト」と誤報される事態も起こっていて、タイミング次第では、別の国で認定され、違う名前がついていた可能性もあったわけです。

 

村上博士は、分析研究中「岩城石」と呼んでいた石を、故杉博士に敬意を表し「スギライト(杉石)」と命名しました。

まさに、この石にふさわしい名前、この名前にふさわしい石だと思います。

  

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  杉健一博士(左)と 村上允英博士(右)

 

 

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最初で最後の弟子(創作掌編)

 

 晶太が通い始めた書道教室は、墨汁と筆ペンを使わない方針のせいか、あまり流行っていなかった。

 学童クラスはさっぱりだが、成人クラスの継続的な「生徒さん」たちのおかげで成り立っているのだ、と師匠は言っている。

 祝儀袋や不祝儀袋に書く名前くらいは上手に筆書きしたい、という動機で入門し、丁寧に磨った墨で名前の字を練習していくうち、書道に心の安らぎを見出した人たちだ。教室へ来る前は、なかなか思いどおりに書くことができない自分の名前を好きになれなかったという人もいた。

 

 師匠の短めに生やした髭は、黒と白の混ざりぐあいが、いぶし銀のような色に見える。晶太はひそかに「銀ひげさん」と呼んでいた。

 書道の師範は師匠の本業ではあるけれど、仮の姿でもあった。

 銀ひげ師匠の正体は魔法使い。晶太は書道ではなく、魔法の方の弟子なのだ。

 

 幼いころから晶太は、人が嘘をつくとすぐに気づいた。だまそう、ごまかそうとする嘘から、悪気のない嘘まで、全部わかってしまう。

 だから、

「君は、魔法使いの卵だ。よかったら私について修行してみるかい?」

とスカウトされたとき、素直に信じることができた。晶太がうなずくと、師匠はとても喜んだ。

「ありがとう! 魔法使いは弟子をとって初めて一人前といわれているのに、私は自分勝手に生きてきたせいで、今まで弟子がいなかったんだよ」

 そう言って、ちょっと涙ぐんだりもした。

 

 魔法の修行といっても、第一歩はとても地味なものだ。

 毎日、書道教室へ行き、他の生徒がいるときは、同じようにお習字をする。いないときも、まず、墨を磨る。

 墨を磨っているあいだは、一意専心、おしゃべりは禁止だった。

「師匠、日本にも、ホグワーツ魔法魔術学校みたいな学校があるんですか?」

「墨は磨り終えたかい?」

「はい」

といって、硯の海を見せる。

「よろしい。そうだね、日本にあるとは聞いたことがないな。ほとんどの魔法使いは落語家と一緒で、それぞれ師匠に弟子入りして技を学ぶんだ。物語には多くの真実が含まれているけれど、外国とはいろいろ事情が違うんだろう。晶太は、ゲドという魔法使いの物語を読んだことがあるかな?」

「ゲド? ありません」

西の善き魔女と呼ばれる人が書いた本で、特に1巻目は、今の晶太にお勧めだよ。魔法について、こんなふうに説明されている。森羅万象、あらゆるものには隠された真(まこと)の名があり、その名を知れば、相手を操ることができる。真の名を探り出し、神聖文字を唱えて支配する術、それが魔法だとね」

 晶太は目をみはって、師匠を見あげた。

「ぼくもこれから、そういうことを勉強するんですか?」

 

「いいや、少し違う。私たちは、あらゆるものにはそれを司る神がいる、と考えているんだ。八百万の神というわけだね。魔法は、その神様に挨拶するところから始まる」

「おはようございますとか、こんにちは、とか?」

「まあ、そういうことさ。唱える言葉は、かなり古めかしいけれど日本語で、独特の節をつける。これを『ウタ』という。つまり魔法の呪文だね。挨拶して親しくなると、やがて神様が合言葉を教えてくれる。挨拶する、通じ合う、それから、頼む、という順序だ」

「頼むんだ……」

「そうだよ。相手は神様、操ったり支配したりすることはできないからねぇ。ただ、強く心をこめて頼む。──とはいっても、八百万のなかにはさまざまな神様もいらっしゃるので、場合によっては丁々発止と渡り合うようなこともあるよ」

 学校の教室にいるときのように、晶太は手をあげて質問した。

「ぼくが入門してからずっとやってきたのは、どんな魔法の練習なんですか?」

 この1ヶ月間、師匠から口伝えで教わった「ウタ」を、磨ったばかりの墨に向かって唱え続けてきたのだった。

 

「うーん、質問されてしまったら仕方ない。ほんとうは内緒にしておいて、君をびっくりさせたかったのに」

 残念そうにつぶやくと、師匠は作務衣の懐から細身の巻物を取り出した。

「この巻物は、魔法使いの命といっても過言ではない。私が直々に授かった合言葉のすべてが、ここに記されているのだ」

「忘れないように?」

「いやいや、魔法使いは一度聞いた合言葉をけっして忘れはしない。たとえ何千、何万あったとしてもだ。書き留めるのは、言葉にはそれ自体に力が備わっているからで、その力が魔法使い自身の力量を決める」

 言うなり手さばきよく、巻物を床に広げた。部屋の端から端までいっても足りないほどの長さの紙が、まっすぐ伸びていく。

 晶太は、あの細い巻物に巻かれていたとは思えない紙の量に驚き、そして、その紙がまったくの白紙であることに驚いた。

 その驚愕を見て、師匠は嬉しそうに微笑んだ。

「大切な言葉の数々を魔法で守るのは、基本中の基本。本人にしか読めないよう、『見えずの墨』で書いてあるんだよ」

と、説明する。

「わかった! ぼくが毎日唱えているのは、その墨を作るための呪文だったんですね」

「その通り。さらに、この墨は、魔法使いが許可する相手には、こうして見せることもできる」

 鋭く発した呪文ひとつで、長い紙の一面に、無数の筆文字がくっきりと浮かびあがった。その迫力に晶太は拍手喝采した。

 師匠は称賛に応えて軽く会釈し、手首のひとひねりで紙を元通り巻き戻すと、再び懐にしまった。気をよくしたのか、続けざまに魔法を使って見せてくれる。

 

 習字用の筆を長机の真ん中に置くと、すばやく「ウタ」を唱える。

(筆の神様に、どんなことを頼んでいるんだろう)

 わくわくしながら見守るうち、筆はびっくりするような勢いで大きくなり始めた。大きくなりながら、微妙に形を変えていく。

 どことなく見覚えがある形……。

 

「あっ、魔法使いのほうきだ! これで空を飛ぶんですね?」

  期待に満ちて尋ねると、

「この毛筆は、タヌキの毛。化けるのは得意でも、飛ぶほうはからっきしダメだね」

と、師匠は答えた。

 

 

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紫色を好きになった理由

 

紫色が好きです。

黄緑も好きで、紫とは同率1位くらいでしょうか。

 

偶然なのか必然なのか、私が読者登録をさせていただいている方たちのうち、紫色好きを表明されているのは、ひとりやふたりではありません。

 Emily (id:Emily-Ryu)さん
 のぞみュー (id:nozomyu)さん
 雷理 (id:hentekomura)さん

『3人』いらっしゃいます。(無断でカウントごめんなさい……)

 

好きなものは、いつの間にか好きになっていたということが多いですが、紫色好きになった事の始まりは、半世紀以上前のエピソード記憶とはいえ、はっきりと覚えています。

 

少し前置きが長くなりますが──。

私は近所の保育園に入り、園庭でアヒルにつつかれたりしながらも、楽しく通っていました。

ところが、その時代にも保育園不足問題があったようで、小学校入学は1年以上先だったのですが、「母親が外で仕事をしていないから」ということで退園になりました。

しかし、捨てる神あれば拾う神あり。

入学を予定している小学校に新しく幼稚園が併設されることになり、今なら定員に余裕があるのでいかがですかと、園長先生が母に声をかけてくださったのです。

通りがかりに、洗濯物を干す母の足元で遊んでいる私(幼児)を見かけて、というのがきっかけでした。

 

幸運にも入園できた新しい幼稚園では、担任のT先生がとてもきれいで優しくて、憧れの的でした。

季節は流れ、あるとき幼稚園の教室でヒヤシンスを水栽培することになりました。園児全員に球根と水栽培用のポットが配られます。

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 男の子はブルー、女の子はピンクのヒヤシンスポット。

ところが、多様性を目指したのか、それとも単に数が足りなかったのか、紫色とグリーンのポットも少しだけ混ざっていました。

経緯は覚えていませんが、その紫のポットが私のところにまわってきたのです。

 

(ほかの女の子はみんなピンクのポットもらったのに、どうしてtoikimiだけ……?)

まさに「がーん」とか「ズ~ン」という心境でした。

      f:id:toikimi:20180723114055p:plain

そのときです。

T先生がそばに来て、私と目線を合わせ、

「toikimiちゃん、むらさきはおしゃれな色なのよ」

と、おっしゃったのは──。

 

それ以来、大好きなT先生が「おしゃれな色」だと讃えた紫が、私の大好きな色になりました。

 

 

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「薔薇は薔薇であり、薔薇であり、薔薇である」

 

A rose is a rose is a rose is a rose.

薔薇は薔薇であり、薔薇であり、薔薇である。

アメリカ合衆国の詩人ガートルード・スタイン(1874.2.3~1946.7.27)の言葉です。

 

ゲシュタルト療法の創設者フレデリック・パールズの弟子で、1985年に来日し指導・実践を行った故ポーラ・バトム博士が好きだった詩だと聞きました。

 私がワークを受けたファシリテーターには、ポーラからゲシュタルト療法を学んだという方々がいて、

「ポーラがこう言っていた」

と、なつかしそうに話してくれるのです。

 

ゲシュタルト療法は、ゲシュタルト心理学をはじめとして、さまざまな哲学・心理学を取り入れていますが、そのなかのひとつが「現象学」です。

げんしょうがく【現象学

意識に直接的に与えられる現象を記述・分析するフッサールの哲学。現象そのものの本質に至るために、自然的態度では無反省に確信されている内界・外界の実在性を括弧に入れ(エポケー)、そこに残る純粋意識を志向性においてとらえた。

実存哲学などにも影響を与え、サルトルによるイマージュの現象学メルロ=ポンティによる知覚の現象学などが生まれた。

三省堂大辞林 第三版より抜粋)

 

ほとんど何を言っているのか理解できませんが、エポケー(判断中止、判断を留保すること)という態度は、ゲシュタルト療法に通じるように思います。

しかも「括弧に入れる」とは、面白い表現ですね。

ごく当たり前だと思い、疑うことのなかった価値判断を(括弧)のなかに入れ、ちょっと留保しておいて、今のありのままを記述する。

ゲシュタルト療法の「気づきのトレーニング」に似ています。

 

さて、冒頭の詩ですが、

「薔薇は薔薇である。薔薇の花が薔薇であり、薔薇のとげが薔薇である。薔薇の根が薔薇であるように、それ以外に薔薇の本質は存在しない」

と、解釈することができます。

物事の本質はどこか見えないところにあるわけでなく、現実に現れている薔薇そのものが本質なのである。

人の存在も同じである。あなたがどこかにすばらしい本質を隠し持っているわけではなく、あなたの存在があなたであり、あなたの本質なのだ。

(ポーラ・バトム) 

 

「禅」的になってきました。使いこなすには相当の修行が必要な感じです。

 

過去の失敗や後悔に引きずられたり、あるいは、認めたくないような痛い感情が湧きあがってきたりするとき、無かったことにしようと無駄な労力を費やすよりも、

「ローズ・イズ・ローズ・イズ・ローズ・イズ・ローズ(深い根っこも私、鋭いとげも私)」

と唱えて、受け入れる場を心のなかに作ってみる。

それは、なかなか有効な手段ではないかと思います。

 

 

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山里町の恵み(創作掌編)

 

 陽一は営業部長のお供として、クライアントと会食することになった。

 本来なら、研究開発チームのリーダーが行くはずだったのに、突然のぎっくり腰で、若手にお鉢が回ってきたのだ。

 連れて行かれたのは、本格的な日本料理の店で、道路から入り口までの間が、風情のある小道になっていた。完全個室のゆったりとした座敷で、仲居さんが付きっ切りで世話してくれる。陽一は、料理や飲み物が足りているかどうか気を配る必要もなく、ただ、まわりのペースに合わせて食べ、少しだけお酒を飲み、適度に相槌を打っていればよかった。

 

 すっきりとした器に、品良く盛りつけてある料理の数々。

 美しくあしらわれた「つまもの」の葉を見て、祖母の顔が浮かんだ。

 

 祖母が暮らしている山里町は、名は体を表すの土地バージョンのような、山里そのもの、という町だ。

 数年前、豊かな自然の恵みである樹や草の葉を、料理の「つまもの」として高級和食店に出荷する試みが始まり、予想を超えて軌道にのった。町ぐるみのビジネスを支えたのはお年寄りで、祖母もそのひとりだった。

 

 庭に生えている葉っぱを売るだけなのだが、かなりの手間と注意力が必要な作業だ。

 陽一が泊りがけで訪ねていたとき、ちょうど祖母のところへ、急ぎの発注依頼FAXが届いたことがあった。葉の種類と数量が書かれた注文書を手に、祖母は手際よく、若葉や芽を摘みとり、色かたちのよくないものを除いてから、丁寧にパック詰めしていた。

 その表情は真剣そのもので、長時間にわたり背中を丸めたまま集中している姿に、頭が下がる思いがしたのだった。

 

(ばーちゃんが摘んだ葉っぱも、こんなふうに料理を引き立てているのだろうか)

と考えているとき、不意に場の雰囲気が変わった。

 まだ卓上に並ぶ器を残したまま、仲居さんがさりげなく退出し、クライアントの表情が仕事モードに切り替わったのだ。

 陽一に対して、新製品についての疑問点が問いかけられた。

 現場でもチェック済みの、やや不安定な部分を、いくつかピンポイントで確認され、突然のことで動揺しながらも、

『問題点を明らかにすれば、改善につながる』

というリーダーの方針通り、ひとつずつ率直に答えていく。

 となりに座っている営業部長の両手が、膝の上で開いたり閉じたりしているのが見え、気をもんでいることが伝わってきたけれど、他に仕様がなかった。

 

 ありがたいことに、質問タイムは短時間で無事に済んだ。先方は満足したようで、なごやかな雑談が再開される。

 ところが、緊張から解放されたとたん、みぞおちやお腹のあたりが絞られるように痛み始めたのだ。

(困ったな、このタイミングで……)

 うろたえる陽一の視界に飛び込んできたのは、煮物の器に残っていた木の芽の、瑞々しい緑色だった。

 木の芽は山椒の若葉で、サンショオールという成分が胃腸の働きを調える──。

 祖母から教わった知恵を思い出し、箸でつまんで口に運ぶと、清冽な香りと辛みが広がり、痛みがすーっとやわらいだ。

 

 

 帰り道、陽一は祖母のことを考えていた。

(今度、ばーちゃんをこっちに招待して、ご馳走しよう)

 できれば、山里町が「つまもの」を納品している店がいい。世界に誇りうる和食の美しさ、それに一役買っている葉っぱたちの晴れ姿を、祖母に見せてあげたかった。   

 

 

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『クリミナル・マインド』の格言

 

『クリミナル・マインド FBI行動分析課』は、2005年秋に始まったアメリカのテレビドラマで、現在はシーズン13が米CBSネットワークで放送中とのことです。

FBIの行動分析課(BAU)に所属するプロファイラーがチームを組み、シリアルキラーなどの特殊犯罪を捜査し、行動科学的に犯人像を分析して解決する、1話完結型のドラマ。

事件現場を管轄する警察やFBI支局からの要請により、専用ジェット機で全米各地に飛ぶので、大都市から辺境の地までが舞台となっているのも見所です。

 

非情で凄惨な犯罪には目を背けたくなりますが、『クリミナル・マインド』の魅力は何といっても、レギュラーメンバーのキャラクターとチームワークの素晴らしさにあると思います。

また、始まりや終わりのシーンで、毎回さまざまな格言のナレーションが入るのですが、ドラマの内容に沿った言葉が、登場人物の声で語りかけられるので、とても印象的です。


criminalminds.seesaa.net

格言を引用するにあたり、ファンにとって感謝してもしきれない、こちらのサイトを参考にさせていただきました。ありがとうございます。

 

シーズン1‐第1話「シアトルの絞殺魔

邪悪さとは超自然的なものから生まれるわけではない。人間そのものに悪を行う力があるのだ。ジョゼフ・コンラッド) 

おまえが深淵を覗き込むとき、深淵もおまえを覗き返している。フリードリヒ・ニーチェ

初回だけあって、まさに『クリミナル・マインド』の全シーズンに通低する格言です。

 

異常犯罪者の心の闇や、犠牲となった人たちの苦痛と向き合うことで、プロファイラーたちは計り知れない精神的ダメージを受けます。観ているほうも感情移入してつらくなりますが、救いとなるのは家族や仲間との絆、そして、ユーモアあふれる会話とエピソードなのです。

 

同じ第1話のなかで、台詞による格言の応酬シーンがあるのですが、何度観ても楽しい。

BAUの創設者にして伝説的なプロファイラーでもあるギデオンが、若手プロファイラーのモーガンに、

やってみろ。しくじったら、うまくしくじれ。(サミュエル・ベケット

と渋くアドバイスをすると、すかさずモーガンが応じます。

「やってみる」のではない。「やるか、やらぬか」だ。ヨーダ) 

思わず「10秒巻き戻し」して、もう1度観たくなるシーンです。

 

BAUの捜査官たちが、過酷な任務に立ち向かっていけるのも、

シーズン4 第17話「悪魔払い」
悪を罰しない者は、悪を行えと言っているのだ。(レオナルド・ダ・ヴィンチ

シーズン7 第22話「プロファイラー入門」
悪人にとっての勝利は、善人が何もしないことだ。エドマンド・バーク)

という、信念あってのことなのでしょう。 

 

格言の作者、発言者は、ほんとうにバラエティ豊かです。

①心理学界の三大巨匠。

シーズン4 第12話「ソウルメイト」
秘密を守り通せる人間はいない。口を堅く閉じれば、今度は指先がしゃべり出す。全身から真実がにじみ出るのだ。ジークムント・フロイト

シーズン7 第12話「ピアノマン
トラウマは苦しみの源とは限らない。それぞれの目的に沿ったものをもたらすのだ。(アルフレッド・アドラー

シーズン8 第21話「子守キラー」
子供は、大人の言葉ではなく人となりから学ぶ。カール・ユング

 

英米政治家の競演。

シーズン10 第2話「地獄めぐり」
遠い過去まで振り返ることができれば、遠い未来まで見渡せる。ウィンストン・チャーチル

しがみつくより手放す方が、はるかに力を必要とする。(J.C.ワッツ)

 

③まるで呼応しているようなノーベル賞受賞者の言葉。

シーズン4 第6話「幼児誘拐」
本当に自然なものは夢だ。夢だけは腐ることがない。ボブ・ディラン

シーズン9 第5話「66号線」
人生は夢、かなえなさい。マザー・テレサ

 

➃英訳→再和訳で原形がわからなくなった気がすることわざ。

シーズン8 第6話「殺しの教室」
独学で千日学ぶより、一日良き指導者につけ。(日本のことわざ)

 

⑤登場回数の多い偉人ふたり。

シーズン1 第2話「キャンパス連続放火犯」
想像力は、知識よりも重要だ。知識には限界があるが、想像力は世界さえ包み込む。アルバート・アインシュタイン

シーズン9 第10話「いたずら電話」
人間性に絶望してはならない。我々は人間なのだから。アルバート・アインシュタイン

シーズン2 第5話「消えない傷跡」
世の中は苦難に満ちているが、またその克服にも満ちている。ヘレン・ケラー

シーズン6 第12話「魂を呼ぶ者」
人生でもっとも素晴らしく美しいものは、目に見えないし触れることもできない。心で感じ取るしかないのだ。ヘレン・ケラー

 

⑥シーズン1からシーズン10まで、印象深い格言の数々。

シーズン1 第10話「悪魔のカルト集団」
思想は人の間に壁を作り、夢や悩みは人を結びつける。(ユージーン・イヨネスコ)

シーズン2 第4話「サイコドラマ」
素顔で語るとき、人は最も本音から遠ざかるが、仮面を与えれば真実を語り出す。オスカー・ワイルド

シーズン3 第19話「記憶を失くした殺人犯」
かつてのあのまばゆいきらめきが、今や永遠に奪われても、たとえ二度と戻らなくても、あの草原の輝きや、草花の栄光が還らなくても嘆くのはよそう、残されたものの中に力を見出すのだ。ウィリアム・ワーズワース

シーズン4 第14話「愛しき骸」
信じる者に対して証拠は不必要である。信じないものに対して証明は不可能である。(スチュアート・チェイス

シーズン5 第12話「人形の館」
人生はチェスとは違う。チェックメイトの後もゲームは続くのだ。アイザック・アシモフ

シーズン5 第14話「仮面の男」
私の持っているものが私を意味するなら、それを失ったときの私は何者なのだろう。(エーリッヒ・フロム)

シーズン6 第13話「殺人カップル」
苦悩に対する憤りは、苦悩自体に向けられるのではなく、その意味のなさに対するものである。フリードリヒ・ニーチェ

過去に体験した苦痛は、今日の自分と大いに関係がある。(ウィリアム・グラッサー)

シーズン7 第6話「よみがえり」
死というのは物語の終わりと同じ。タイミングによってそれ以前の出来事の意味がかわる。(メアリー・キャサリンベイトソン

シーズン7 第10話「血に染まった拳」
誰もが天国に行きたがるが、死にたがる者はいない。(ジョー・ルイス)

シーズン8 第3話 「家族ゲーム
行動とは、その人の本当の姿が映し出される鏡である。ゲーテ

シーズン8 第15話「622」
世界は全ての人を壊し、多くの人は壊された場所が強くなる。アーネスト・ヘミングウェイ

シーズン9 第13話「帰郷」
許すことで過去は変わらないが、未来が広がるのは確かである。(ポール・バーザ )

シーズン9 第22話「テセウスの迷宮」
縛り首になる定めの者が、溺れ死ぬことはない。(ことわざ)

人はしばしば、運命を避けようとした道で、その運命と出会う。(ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ)

シーズン10 第1話「容疑者X」
私は頭の中にとどまりすぎて、正気を失ってしまった。エドガー・アラン・ポー

シーズン10 第8話「サドワース・プレイスの少年たち」
人があなたをどう扱うかはその人の宿命だが、どう反応するかはあなた次第だ。(ウェイン・ダイアー)

 

先月Huluでシーズン11が配信開始となり、毎日1話ずつ大事に視聴しました。

そしてまた、心に残る言葉と出合いました。

シーズン11 第5話「暗闇のアーティスト」
庭には、植えたつもりのない物の方が多く育っている。(スペインのことわざ)

おもしろいことわざです。いろいろ想像が広がりました。

ドラマの中では、殺人に至る衝動が育っていたわけですが、そういう破滅的なものばかりとは限りません。

見慣れすぎていて気づかないだけで、よく観察してみれば、風に乗って飛んできた種や、旅人の靴底から落ちた種が、思いがけない花を咲かせているかもしれないのです。

 

 

 

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ハヤさんの昔語り〔完〕~再会~(創作掌編)

 

 ハヤさんの店は珈琲の専門店なので、フードメニューに載っているのはトーストとゆで卵だけだった。

 それでも、午後になると「本日の焼き菓子」なるものが現れ、私はよくコーヒーと一緒に注文している。

 ある日、店に入ろうとして、その焼き菓子を納品している人物を目撃した。

 

 席に落ち着き、コーヒーと日替わりの焼き菓子を頼んでから、

「さっき、お菓子を届けにきていた人、きれいな女性だったけど、ひょっとして奥さま?」

 たずねると、ハヤさんは目を見張って答えた。

「いえ、あれは妹です。駅前の洋菓子店でパティシエをしているので、出来立ての焼き菓子を毎日届けてもらっているんですよ」

「あ、そうなの」

 前世で寸一だったころの話ばかり聞いているから、現世のことを知ると少し驚く。

 

 本日の焼き菓子はマドレーヌだった。

 コーヒーと共に味わいながら、昔語りが始まるのを心楽しく待った。

 

   △ ▲ △ ▲ △

 

 お千代様は、かねがね言っていた。

「私があの世へ行く時は、けっして呼び返さぬよう頼んであるのですよ」

 というのも、昔から、家の者が息を引き取ると、旅立とうとしている魂を引き戻すため、家長が屋根に上り、大声で名を呼ぶという習わしがあったからだ。

(いつかはそういう日が来るのかもしれないが、それは、ずっと先のこと)

 と、寸一たちは思っていた。

 

 しかし、胸が塞がるような知らせは、突然やってきた。

 寸一はすぐさま、伊作と長太郎を連れて、お千代様の屋敷を訪ねた。会うことは叶わないまでも、せめて敷地の一隅に、身を置いていたかったのだ。

 

 この屋敷で幾度となく、催されてきた集いを思い出す。

 寸一の祈祷により神隠しにあった魔を祓う、というのは名目で、その実、この上なく和やかな歓談の会であった。

 一同そろって出掛けたこともある。

 心清らかな娘を守護したと伝えられる「羽衣」の、奉納舞を観た宵祭り。

 皆が、寸一の寄宿する寺を訪ねてきた折は、近隣のサトという妻女に頼み、亡き母から教わった料理を供して喜ばれた。

 お千代様は、伊作の家族がふえるたび、祝いの品を届けさせたという。

 石工になりたいと言い出した長太郎には、付き合いのある石屋を引きあわせた。

 

 やがて、屋根の上に、屋敷の当主が姿を現した。

 お千代様との約束を守ってか、ただ静かに、明るく晴れた空を見上げている。

 

 伊作と長太郎が、身をふるわせて泣き始めた。

 寸一は居たたまれなくなって、その場を離れた。嘆きを共にすることも出来ないほど、激しい悲痛に苛まれていたのだ。

(なんとしたことだ)

 これまで、幾人もの肉親や知音と死に別れてきたが、これほどの喪失感を覚えたことはない。

  

 慟哭をこらえつつ、よろめき歩いて何処かへ身を隠そうとしたとき、前を遮るように人影が立った。

 美しい娘が、なつかしげに微笑みを浮かべ、寸一を見つめている。

 思わず顔をそむけながら、

「どなたかは存じませぬが……」

 と言うと、染み入るような優しい声が返ってきた。

 

「寸一さん、私ですよ」

 はっとして見つめ返す。

「あなたは……、お千代様」

 火花のようにひらめく思いに、体が揺らいだ。

 寸一は、すべてを思い出したのだ。

 前世からの深い縁で結ばれていた、お千代様のことを━━。

 

「今生では添い遂げることは叶いませんでしたが、こうして会えたこと、それだけでいいのです」

 お千代様は心安らかな顔で、西の山の方角へ去っていった。

 この地では皆、其処から旅立っていくのだ。


   △ ▲ △ ▲ △

 

「もう、泣かないでください……」

 と言われて、初めて自分が涙を流していることを知った。

「思い出してくれたのですね。今度は私のほうが先に、あなたを見つけました」

 ハヤさんの言葉に、私はうなずく。

 

 私が昔、千代だったとき、雨ノ森の草庵で寸一と出会った。

 寸一は気づかなかったが、私はすぐに宿命の相手だとわかった。

 しかし、もう孫もいるような身だったので、言い出すことができなかったのだ。切ない限りではあったけれども、すべてを胸の内に隠した。

 時折、寸一たちを招いて話をするのが、なによりの幸福だった。

 

「ようやく再び、巡り会えました」

 こぼれ出た言葉は、時空を超えた木霊のように、永く響いた。

 

 

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