魔法使いの銀ひげ師匠は、書道教室の先生でもあるので、 ときには、額装や掛け軸にするための「書」も頼まれる。
4年前の書道作品を持って訪ねてきたのは、真新しいスーツ姿の、小網さんという人で、お祖母さんからの贈り物だったそうだ。
挨拶が済み、小網さんがカバンから色紙サイズの額を取り出す。師匠のななめ後ろに座った晶太は、伸びあがるようにして見つめた。
『必勝』
という二文字が書かれている。大きくて力強い字だけれど、あまりプレッシャーを感じさせないところが銀ひげさんらしい。
「僕が受験生だったとき、祖母はこちらの教室の生徒ではなかったのに、先生に無理を言ってお願いして書いていただいた、と聞いています。お陰様で、志望校に合格することができました。この4月から社会人になります」
と言って、深々と頭を下げた。
「それはなにより。お祖母様は確か──、出来ることなら自分で書きたいのだけれど、毛筆はほんとうに苦手だからと、おっしゃっていましたね」
「はい、ミミズののたくったような字だと、いつも嘆いています。それなので、父や叔母は小さい頃から、書道塾へ通っていたそうです」
「ミミズねえ。ところで、この『必勝』には秘密があるのを、あなたはご存知かな?」
思いがけない言葉に、小網さんが目をみはる。
晶太は、どこかに魔法がかかっているのかと思い、確かめようと見直した。
「額縁にかくれて見えないが、こうやってはずすと……」
師匠が留め具をずらして、額から書道紙を取り出す。
「あっ!」
小網さんと同時に、晶太も声をあげた。
書道紙の4つの辺を縁取るように、細かい筆文字が並んでいたのだ。
すべて平仮名で、
だいじょうぶ だいじょうぶ だいじょうぶ
だいじょうぶ だいじょうぶ だいじょうぶ……
と、書き連ねてある。
(ほんとだ、ミミズが踊ってるみたい)
晶太は心のなかで、こっそりつぶやいた。
「お祖母様が、一文字一文字、真心をこめて書いていらっしゃった姿を、はっきりと覚えていますよ」
「そうだったんですか……」
何度もまばたきしながら書に見入っていた小網さんは、姿勢を正すと、銀ひげ師匠のほうへ向き直った。
「今日は、お願いがあってきました。今度は僕のほうから、祖母に贈りたい言葉があるんです。それを書いていただけないでしょうか?」
リクエストは『感謝』という二文字。
銀ひげさんは快く引き受けた。
まず、小網さんに一意専心で墨をすってもらい、それから、細い筆を渡す。
ありがとう ありがとう ありがとう
ありがとう ありがとう ありがとう……
書道紙の縁に沿って書き続ける横顔は、真剣そのものだった。
『ありがとう』の文字が乾いてから、銀ひげ師匠が『感謝』を書き、額装して翌日渡す、ということになった。
何度もお礼を言って帰っていく小網さんを見送ったあとで、
「師匠、書くときに何か魔法を使いますか?」
と、晶太は尋ねた。
「いいや、一生懸命すった墨と、心をこめて書いた文字には、もう充分魔法が宿っているからねえ。あまり余計なことをしないで全体をまとめるのが、私の役目さ」
言いながら、じみじみとしたまなざしで、小網さんの『ありがとう』を見つめる。
「……隔世遺伝のミミズだな」
「そうですね、踊ってますね」
同じ土から生まれたことが一目でわかる、元気で心優しいミミズに見えた。