晴天の日曜日、香澄は午後になってから、近くの河川敷へ出かけた。
都会の端を横切って流れる川は、再開発が進んで遊歩道も完備されている。けれど香澄は、少しだけ残った土手のほうが好きだった。
立ち枯れしている葦(ヨシ)の陰に座ると、日々のわずらわしさから身を隠せたような気分になれるのだ。
今日も、小さな先客がいた。
近所のベーカリーの男の子で、たしか名前は「大地」君。以前はよく、遊歩道や公園で、犬と散歩している姿を見かけた。
ひとりで土手に来るようになったのは、先月の初めごろからだ。あいさつを交わすでもなく、少し離れた場所で、思い思いに過ごす。
それでも香澄は、
(あ、来ている)と、心に留めていた。
いつものように大地君は、熱心に空を見あげている。
UFOでも飛んでいるのかと思ったけれど、みがきあげたような青空には、雲が浮かんでいるだけだ。
香澄は、もうそれ以上は気にせず、ひざをかかえて川の流れをながめることにした。
ときどき思いきり深呼吸して、溜めこんだストレスを吐き出してしまう。
突然、透きとおった声が響いた。
はっとして顔をあげると、立ちあがった大地君が、天にむかって手を差し伸べている。その先には、ひとかたまりの雲が、ひと目で「犬だ」とわかる形をしていた。むくむくとした雲の犬には、しっぽの輪郭まで見てとれる。
(犬好きな男の子なら、大喜びして当然かな……)
後ろからながめていると、視線を感じたのか、大地君が振りかえった。
「すごいねえ、あの雲。犬にそっくりだね」
呼びかけた香澄に、生真面目な顔で答える。
「今日のがいちばん、ルートに似てた」
(え?)
聞き返す間もなく、大地君は背を向けて、雲を目で追いかけている。
地上よりも強く、空には風が吹いているらしい。犬のように見えた雲は、形を変えながら、じきに流れ去っていった。
好奇心にかられて、大地君のそばへ行った。
「ルートって、いつもいっしょにいた柴犬のこと?」
「うん、ぼくの犬。老衰で死んじゃったんだ」
といって、細い肩を落とす。
「ルートは川が好きだったから、よくここへ来るの。さいしょに来たとき、ちょっとだけルートに似ている雲が浮かんでた。あそこが頭だとしたら、耳はもう少しとがってて、しっぽはふさふさだったなあって思ってると、ほんとにそのとおりの形に変わったんだ。それからお休みの日には、ずっと来てる。でも、あんなにそっくりだったのは、今日が初めてだよ」
香澄は空を見あげた。
「雲に心が通じることって、あるのかな?」
つぶやくと、となりで大地君が深々とうなずく。青い空を見わたして、
「ひとつだけ上の方に離れてる雲がいるね、三角形をさかさまにしたような形のやつ。おねえさんには、何に見える?」
「ハート型かな。でも、ちょっと角ばってるね」
大地君と並んで見つめるうちに、逆三角形をした雲の端が、少しずつまるくやさしい曲線を描き始めた。
一瞬だけ空高く浮かんだ、完璧なハート。
すぐ風に運ばれていく。流れながら、たなびいて左右に広がり、一対の翼のように姿を変える。
翼を得た雲はスピードを増して、他の雲たちを追いこし、空のかなたへ飛び去っていった。
「見た? あの雲、ルートと同じ方角へ飛んでいった!」
大地君が顔をくしゃくしゃにして笑った。
香澄も、大きな声で答える。
「うん、同じ空へ向かっていったね」