かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

シャンパンタワー(創作掌編)

 

 めったに乗らないタクシーで、私は結婚披露パーティの会場へ向かった。

 スピーチの原稿を何度も読み返す。

(道が大渋滞して、たどりつけなければいいのに)と考えていたら、むしろ早めに到着してしまった。

 ホテルのエレベーターが故障して閉じ込められる、というアクシデントも起こらない。

 エレベーターの扉が開くと、迷う間もなく受付を見つけたのだが、そこに立っていたのは、ウサギのかぶりものを着けたタキシード姿の2名だった。

 白いウサギと、茶色いウサギである。

 

 新婦は私の親友で、新郎は数年来の仕事仲間だ。

(どっちのこともよく知っていると思ってたけれど、こういう趣味があったとは……)

 まだ早い時間のせいか、ほかに人の姿は見えない。

 驚きを顔に出さないようにしながら、型通り挨拶してご祝儀袋を差し出すと、ウサギたちは、なぜかおもしろそうにクスクスと笑い合った。

 失礼というより、ひたすら奇妙な感じである。

 大きく《抽選券》と書かれたカードを受け取り、どこからともなく現れた案内係の男性に先導されて受付を離れた。

 

 パーティ会場に入るなり、自分の間違いに気づいた。

 正面の壁には、大きなスクリーン、

 そして、

『第5回 海外おもしろ動画 愛好家の集い』

 という横断幕が掲げられていたのだ。

 スクリーン横には、見あげるようなシャンパンタワーが設置されている。

 ピラミッド型に積み上げられたクープグラスは、すでにシャンパンが満たされ、スポットライトを浴びて金色に輝いていた。

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 各テーブルで朗らかに語り合っている「愛好家」たちのようすを見ると、まさに宴たけなわという感じだ。仮装している人も少なくないようで、なかにはウエディングドレス姿の女性もいる。遊び心にあふれた集まりのようだ。

(受付のウサギたちは、私のことを結婚式の招待客コスプレだとでも思ったのかしら? いやいや、そんなことはどうでもいい。降りる階を間違えたんだわ。ご祝儀袋を返してもらって、正しいフロアに行かないと)

 ところがその瞬間、ふいに照明が暗くなり、ドラムロールの音が響き始めたのだった。

 

 スクリーンに、『会長』という名札を着けた人物の姿が映し出される。

 知的な顔立ちの紳士だが、ブロンドの巻き毛にリボン、青いエプロンドレスで『アリス』の仮装をしていた。

「これより、シャンパンセレモニー遂行者の抽選を行います」

 厳粛な面持ちで宣言すると、抽選箱に手をいれてかき混ぜ、ゆっくりと1個のカラーボールを取り出す。ボールには3桁の数字が書かれていた。

 

 会場中の人がいっせいに、ボールの数字と手元の《抽選券》とを見比べる。

 つられて私も、受付で渡されたカードに目をやった。

 ……同じ数字だ。

「おめでとうございます」

 声をかけられて振り返ると、さきほどの案内係がほほ笑みながら立っていた。彼が合図したのだろうか、私の真上だけライトが点灯し、歓声と拍手がわきおこる。

『アリス』姿の会長も、テーブルのあいだをぬって駆けつけてきた。

 

「すみません、ちがいます!」

 と、あわてて説明する。

「私は会場を間違えて、ここに来てしまったんです」

 ところが驚いたことに、会長を始め愛好家たちは大喜びである。おもしろ動画を愛する人びとは、ハプニングが大好物らしい。

「これも何かのご縁です。よろしければ、ぜひお付き合いくださいませんか? 3分とかからないセレモニーですので」

 と会長が言い、再び拍手と歓声が起こる。

 押し問答をしているより、そのセレモニーというものをやってしまったほうが早く戻れそうだ、と私は判断した。

「わかりました。で、何をすればいいんですか?」

シャンパンタワー崩し、です」

 

 美しく積み上げられたシャンパンタワーから、ある特定のグラスを取り去ると、ドミノ倒しのように他のグラスが落ち始めるらしい。最初の1、2個はゆっくりだが、みるみる連鎖はひろがり、さいごには雪崩を打ってシャンパンタワーが崩壊する。

 それは、わずか十秒ほどのスペクタクルだという。

 

 人びとが席を立ち、スマートフォンやカメラを手に、それぞれの撮影ポイントへ移動し始める。

 撮影準備が整うのを待っている私のところに、案内係がやってきた。透明なレインコートを手にしている。

「特殊な加工を施してあるグラスですので、お怪我の心配はありませんが、シャンパンは本物ですから、そのままではドレスが台無しになってしまいます」

 

 一瞬のうちに、私の頭の中を、さまざまな考えがかけめぐった。

 

 今日、結婚するふたりを引き合わせたのは、この私だ。

 私が職場近くで親友と落ち合って、ランチの店を探していたとき、たまたま仕事仲間の彼と一緒になったのだ。

 ふたりはあっという間に意気投合し、半年も経たないうちに結婚が決まった。

 もちろん、私が彼に思いを寄せていたことは知らないままで━━。

 そう遠くないいつか、素直にふたりを祝福できる日が来ると思う。

 とはいえ、結婚披露パーティで、縁結びのキューピッドとしてスピーチをリクエストされたのには、心底参った。

 傷口に塩を塗るようなめぐりあわせだ。

(なんとか笑顔で乗り切るつもりだったけれど……、でも、シャンパンを全身に浴びてしまったら、披露宴に出席するどころじゃないわよね)

 

 決意した私は、案内係に向き直った。

「ハプニング動画を撮ろうというときに、あらかじめレインコートなんて着ていたらネタバレになりそうですね」

 すると『アリス』会長が、我が意を得たりとばかりに、一歩進み出た。

「おっしゃる通りです。当然のことですが、クリーニング代、いえ、ドレス代は弁償いたしますので」

「そうしていただくと助かります。ただし、どれだけ拡散してしまうかわからない動画に顔を晒すのは控えたいので、受付のかたからお借りしたいものがあります」

 

 かぶりものを着け、ドレスアップした白ウサギの格好で、シャンパンタワーのわきに立つ。

 期待に満ちあふれた人たちの視線を一身に受けていると、お腹の底から笑いがこみあげてきた。

 時が流れれば、つらかった出来事も笑って思い出せるというけれど、今回は同時進行で、笑い話に変わっていくようだ。

 

 

願い事の速度(創作掌編)

 

 1泊2日の社内研修では、着いた日の夜に「星見イベント」が予定されていた。ペルセウス座流星群の出現期間ということらしい。

(流れ星 3度唱える 願い事)

 妙な俳句調の言葉が頭から離れなかった。どうしても叶えたい願いがあるせいだ。

 

 私の願い事は3つ、というより3段階で、まず第1が社内研修で開催される企画コンテストでの優勝だった。

 そして、その優勝賞金を先日支給された賞与に足して、引っ越し資金に当てる。

 今、住んでいるワンルームの賃貸契約は更新時期が半年以上先なのだが、なるべく早く「ペット可」の部屋に移りたいのだ。

 それが第2段階の願い事。

「ペット可」の賃貸物件は賃料が割高だ。コンテストの賞金は、さまざまな出費を補えるほど高額ではないけれど、二の足を踏んでいる背中を押すきっかけになってくれる。とりあえず引っ越してしまったら、あとは節約に努めて、なんとかやっていけばいい。

 

 晴れて準備が整ったら、ブンタを迎えにいく。それこそが願い事の最終目標だった。

 ブンタは、私が就職して親元を離れたとき、

「生活が落ち着いたら、いっしょに暮らそうね」

 と約束して、実家に残してきた愛犬である。約束を忘れたことはないけれど、仕事に追われているうちに時間ばかりが過ぎてしまった。

 

「ブンタはすっかり元気がなくなった」

 このあいだ、母が電話で言った。

「え? でも、5月の連休に帰ったときは、あんなに元気だったのに」

「あれはね、あなたに会えてはしゃいでいただけ。あなたが帰ったあとは、しょんぼりしちゃって、ごはんもあまり食べないのよ」

 胸を突かれる思いがした。

 私には、あっという間の1年半だったけれど、ブンタにとってはどうだろう。ブンタと私では、年を取っていくスピードも、残された時間の長さも違うのだ。

 

 それからというもの、インターネットの賃貸物件サイト検索と、企画コンテストのプレゼン資料作りに熱中する毎日だった。

 

 星見イベントの会場は、空を広く見渡せる高台にあり、リクライニング式のアウトドア・ベッドまで用意されていた。人工の明かりはもちろん、月明かりも少なく、流星を観察するための好条件がそろっている。

 主催者の説明によれば、1時間に10個から20個の流れ星が期待できるそうだ。

 満天の星に感激したまわりの人たちから、ため息や歓声が聞こえてきたが、私はすでに真剣モードである。

 まずは「賞金賞金賞金」だ。「優勝優勝優勝」と迷ったのだが、「賞金」に決めた。何度も小声で練習する。

 

 ところが……、実際にやってみると至難のわざであった。

 いつ現れるか予測できず、見つけてはっとした瞬間に消えてしまうのが流れ星というものだ。最初の1つは「賞金」の「し」の字も出てこなかった。

 いくつか同じように見過ごしてしまったあと、ようやく、

「しょうきん、しょ……」まで言えたものの、次はまた、タイミングを捉えられず見送るだけ。

 しだいに焦りがつのり、冷や汗がにじんできた。

 

(落ち着いて! まだ時間もチャンスも充分にあるから)

 自分に言い聞かせながら、あえて目を閉じて深く息を吸った。

 静かに見開いた視線の先に、ひときわ明るい星が、尾を引きながら流れていく。

「ブンタブンタブンタ」

 と、思わず唱えていた。同時に熱い思いがこみあげてくる。

(そうだ、とにかくブンタを迎えに行こう。ブンタを迎えに行って、まずそこから始めよう)

 

 その後も星見イベントは続いたけれど、涙でにじんだ目には、流れ星を捉えることができなかった。そのかわり、ぼやけた星空をバックにして、嬉しそうにかけよってくるブンタの姿が、繰り返し浮かんだ。

(このイベントが終わったら、不動産屋と、それからレンタカーも予約しよう。社内研修のあとは休日だから、ブンタを車で迎えに行って、そのまま戻って不動産屋さんと落ち合って、「ペット可」の部屋を一緒に内見してまわろう)

 きっとブンタには、私の本気が伝わるはずだ。

 もし部屋が見つからなくても、次の週もその次も、見つけるまであきらめない。

 

(社内コンテストの優勝を決めるのは、お盆休み明けの役員会議だとか。とても待っていられない。そんな賞金を当てにするより、いざとなったら親に借金してでも……)

 と、決意を新たにする。

 星空をかけめぐるブンタの幻影を、幸せな気持ちでながめていると、ふと違和感を覚えた。冬のアルプスで山岳救助犬がラム酒の小樽をぶらさげているように、ブンタも首から何かさげているのだ。

 小樽ではなく、缶詰型の500円玉貯金箱だった。

 子供のころ買ってもらって、コツコツと貯金していたことを思い出す。 

(そういえば、かなり重かったから、実家を出るとき持ってこないで、そのまま置いてきたんだった。すっかり忘れていたわ)

 流れ星にかけた願い、早くも叶い始めているような気がした。

 

 

蚊帳体験

 

両親とも東京の生まれだったので、「夏休みに泊まりがけで田舎に行ってきた」という友だちをうらやましく思っていました。

それでも一度だけ、叔母の配偶者(義理の叔父)の田舎へ連れて行ってもらったことがあります。

 

三世代同居の大きな家で、叔母夫婦と私の他にも親戚が来ていてにぎやかでした。

私にとっては、それまで会ったことのない人ばかりです。

年が近い子供もいたのですが、その子たちと遊ぶより、広い庭でひたすら自転車の練習をしていたことが記憶に残っています。ちょうど、補助輪を外して自転車に乗る時期だったのです。

 

夜になると、生まれて初めて、目がふさがれるような真っ暗闇というものを体験しました。

私たちが泊まった部屋は、長押に正装したご先祖さまの遺影が並ぶ和室で、蚊帳がつってあります。叔母が蚊帳に出入りするときの「作法」を教えてくれました。

蚊が中に入ってこないよう、まず、うちわであおいで追い払い、さらに蚊帳の裾をばさばさと揺らしてから少しだけ持ちあげ、素早く身をかがめてくぐり抜けること。

けれど、私がおもしろがって何度も出たり入ったりしたものですから、ずいぶん蚊を蚊帳の中に招き入れてしまったと思います。

 

そのうち叔父が、

「蚊帳には幽霊が出るんだぞ」と言ってからかい、私が怖がると、

「幽霊が出るのは白い蚊帳。これは緑色だから大丈夫なのよ」

叔母が機転を利かせてなだめてくれました。説得力のある言葉に安心し、私は蚊帳の中で眠ることができたのです。

 

どうして、兄弟のなかで私だけが、田舎へ連れて行ってもらえたのか、そのときは疑問に思いませんでした。

子供のいない叔母夫婦が、私を養女にすることを考えていて、しかしその話は、当時同居していた祖母の「内の孫はよそへやらない」という一言で立ち消えになった、と知ったのは、ずっとずっと後のことです。

 

気が強く、頭がよく、美しかった叔母も、今年の三月に他界しました。

亡くなる一年ほど前から、電話でしゃべる機会が増えたのですが、この蚊帳の話はしなかったと思い、文章として残したくなりました。

 

 

かみふぶき(創作掌編)~銀ひげ師匠の魔法帖⑩~

 

 銀ひげ師匠の書道教室に通って来ている泰一郎君が、弟子入りを志願したそうだ。

 師匠からそのことを聞いて、晶太は驚いた。

「どっちの弟子ですか?」

「それがな、書道ではなく魔法の方なんだ。他の生徒さんたちが話しているのを耳に挟んで、私が魔法使いだということを知ったようだね。情報源は二人連れで、小さな女の子と年配の女性らしい」

「きっと、ゆなちゃんとお祖母さんですね」

 

 師匠は去年、書道教室で最年少の結奈ちゃんから、庭に立っているスケアクロウについて相談を受けた。すぐに問題解決の方法を見つけ、その後の経過も順調なため、

「先生は魔法使いのようだ」と言われている。 

 結奈ちゃんはともかく、お祖母さんの方は本物の魔法使いだと思って言っているわけではないから、そこのところは泰一郎君の誤解だけれど、銀ひげさんはほんとうに魔法使いなので、結果的には当たっているのだった。

「もし弟子入りしたら、ぼくよりひとつ年上だから、兄弟子になるんですか?」

「いいや、弟子の兄・弟というのは入門した順序で決まるから、晶太の方が兄弟子だね」

 来年、晶太が中学校へ入れば、泰一郎君にとっては下級生が兄弟子ということになる。ちょっと複雑な関係になりそうだ。

「今日、泰一郎君は改めて、面接のためにここへ来るから、晶太にも立ち会ってもらおうかな」

 

 

 お父さんが伝統芸能の家元だという泰一郎君は、すずやかな雰囲気の持ち主で、正座している姿が美しい。

 晶太も背すじを正して、銀ひげ師匠のななめ後ろに座った。

 一方、いつも自然体の師匠は、気楽な調子で話し始める。

「とりあえず大いに歓迎するよ。ここに居る晶太も、私がスカウトして弟子になってもらったくらいだからね。ただし、地道な努力の積み重ねが必要だということは、あらかじめ言っておく。毎日続けて、ざっと十年くらいが修行の期間かな」

「十年……」

 泰一郎君の表情が翳った。

「先生、僕も芸道を志す一人として、修行には相当な年月がかかることは承知しています。でも、たとえば、ある魔法だけを短期集中で特訓するというのはダメでしょうか?」

「ほお、ピンポイント・レッスンというわけだね。で、君が考えているのは、どういった種類の魔法なのかな」

「いちばん良いタイミングを知る魔法、です」

「タイミングと言ってもいろいろあるけど、具体的には、どんなことをするタイミング?」

 答えに詰まった泰一郎君の顔が、見る見るうちに赤くなった。

 

「ひょっとして、好きな女の子に告白するタイミングかな。相手はもしや、書道教室の生徒さんだったりして?」

 たたみかけるような質問に、

「……明里さんです」と、消え入りそうな声が答える。

「なるほど、そういえば明里さんとは、お稽古日が同じ曜日だったね。君が思いを寄せているとは、少しも気づかなかったよ」

 晶太は人が嘘をつくとわかる。そこを見込まれて、魔法使いの弟子にスカウトされたのだ。

 今の師匠の言葉は、明らかに嘘だった。

 けれど、そうとは知らない泰一郎君は、かえって落ち着きを取りもどしたようだ。

「書道を学ぶための場ですから、態度に出さないようにしています。自分の言動に責任を持ち、まわりに及ぼす影響を考えなさいと、いつも父に言われているので━━」

 

 ひと息ついた泰一郎君の口から、堰が切れたように言葉があふれ出てくる。 

「よく、当たって砕けろ、と言いますよね。僕が明里さんに告白して断られたら、とてもつらいですけれど、耐える覚悟はあります。

 でも、それだけじゃ済まないと思うんです。

 失恋しても、僕は書道教室をやめるわけにはいきません。父が先生の指導方針に感銘を受けて決めた教室ですし、僕自身もこのまま学び続けたい。そうすると、ここで顔を合わせるたび、明里さんに気まずい思いをさせてしまうかもしれません。

 それから、僕は今年のバレンタインデーに、明里さんの親友から告白されて、ほかに好きな子がいると言って断ったんですが、僕が明里さんに気持ちを伝えたせいで、二人の友情がぎくしゃくしないか心配です。

 もし、告白してうまくいったとして、僕は幸せですけれど、ここの書道教室は風紀が乱れているとか、変なうわさが流れたりしたら申し訳が立ちません。

 こんなふうに悩んでいるうち、手遅れになってしまったらどうしよう。

 でも逆に、あわてて早まって台無し、とかも怖い。

 ほんとにもう、どうしたらいいかわからないんです」

 胸のうちに溜めこんできた、たくさんの心配事を語りつくすと、泰一郎君は両手を膝に置いてうなだれた。

 

 いつからか面接というより、悩み相談みたいになってきたので、晶太は少しずつ師匠の後ろに下がり、目立たないように身を縮めていた。

(銀ひげさんはどんな魔法を使って、この悩みを解決するのかな?)

 あらゆるものには、それを司る神がいる。

 晶太が習っている魔法は、その神様に挨拶するところから始まる。唱える言葉は、独特の節がついた古めかしい日本語で、「ウタ」と呼ばれていた。

 挨拶して親しくなると、神様が合言葉を教えてくれる。できるだけたくさんの合言葉を集め、状況に応じて組み合わせ、八百万の神に力を貸してくれるよう頼むこと、それが魔法使いの仕事なのだ。

(ぼくだったら、どうするだろう)

 この頃は、そんなことも考えるようになったけれど、まだまだ晶太には難問だった。

 

「泰一郎君、チャンスの神様には前髪しかない、と言うよね。出会ったその時につかまなければならず、通り過ぎてからでは遅い。一瞬のタイミングをとらえるために必要なのは、魔法よりも、勇気と心構えかな。もし、100%の確率で神様の前髪をつかむ魔法があるとしても、それを習得するのは十年ではとても足りないだろうね。実のところ、この私もそんなすごい魔法は使えないよ」

 と、銀ひげ師匠は笑った。

「そうなんですか……」

「がっかりさせて悪いね。とはいえ、折角いろいろ打ち明けてくれたのだから、ちょっと面白い魔法を見せてあげよう」

 

 師匠が低い声で「ウタ」を唱える。

 すると、部屋を横切って一直線に走る、光の筋が浮かびあがった。

 赤くきらめく光線は、泰一郎君の胸もとから発していて、その先はガラス窓を抜け外へ向かっていた。

「これは、いわゆる運命の赤い糸ってやつさ。とはいっても、運命とはあまり関係がなくてね。今、君の胸のうちにある想いが、こうして輝きながら、まっすぐ明里さんへ向かっているんだよ」

「すごく、きれいですね」

 まばたきもせず光の糸を見つめる泰一郎君の身に、異変が起こっていた。

 

 額にかかった前髪が揺れ、勢いよくサラサラと伸び始めたのだ。伸びるそばから、ハラハラと散っていく。床に落ちかけては舞い上がり、渦を巻いて取り囲む。わずかな間に、泰一郎君のまわりは飛び交う髪の毛でいっぱいになった。

 まるで、灰色のふぶきに閉じ込められていくようだ。あれほど輝いていた運命の赤い光線を、かき消してしまうほどの勢いだった。

「ね? わかりやすいだろう。今の君は、ちょうどこんな感じさ。頭の中であれもこれも考えすぎて、いちばん大切なものを見失いかけている」

 銀ひげさんの解説も、吹き荒れる髪ふぶきの渦中にいる泰一郎君の耳には、なかなか届かないみたいだった。。

 

(これは、後で掃除するのが大変だな……)

 と思っていたけれど、呆然として帰っていく泰一郎君を玄関で見送って戻ると、教室の畳の上には何も落ちていなかった。

「師匠、今のは、髪の毛の神様に頼んで起こしてもらった魔法ですか?」

「いいや、違うよ。私はあまり、人の体に魔法を使うのは好きじゃないからね」

「だとしたら、何をどうしたんですか?」

 

 晶太の問いかけに応えて、銀ひげさんが指差した先には、習字用の筆が並んでいた。

 筆にはタヌキの毛が使われている。

「やっぱりタヌキは、化けるのが上手だね」

 と、師匠は楽しそうに言った。

 

 

レイ・ブラッドベリ『太陽の黄金(きん)の林檎』

 

レイ・ブラッドベリ1920年8月22日~2012年6月5日)はアメリカの作家。「SFの抒情詩人」「物語の魔術師」「エドガー・アラン・ポーの衣鉢をつぐ幻想文学の第一人者」などと称されています。

短編の名手で、好きな作品はいくつもありますが、最も題名が印象的な作品といえば、『太陽の黄金(きん)の林檎』です。

アイルランドの詩人イェイツの詩句、

The silver apples of the moon 月の銀の林檎

The golden apples of the sun 太陽の黄金の林檎

(『さまよえるアンガスの歌』)

からとった言葉で、物語のなかでも、登場人物がイェイツの詩に触れています。

また、「黄金の林檎」はギリシャ神話や北欧神話において、不老不死をもたらす神々の食べ物として登場する果実でもあります。

 

 

 冷えきった地球を救うために、太陽から『火』を持ち帰ろうとする宇宙船を描いた、1953年発表の短編です。

太陽の大きさは地球の約109倍、重力は約28倍、中心で起こっている核融合反応により、電気を帯びた粒子がガス状に集まった巨大なプラズマで、その表面温度は約六千度と言われています。

しかし、SFの抒情詩人ブラッドベリは、サイエンスよりフィクションに重きを置く作家です。

 このロケットは〈金杯号(コパ・デ・オロ)〉、またの名を〈プロメテウス〉あるいは〈イカルス〉といい、進行目標はほんとうに、あの光り輝く正午の太陽なのである。サハラ砂漠を横切るにひとしいこの旅のために、一同は喜び勇んで二千本のレモネードの壜と、千本のビールを積みこんだのだった。〈中略〉

この宇宙船では、涼しげでデリケートなものと、冷たく実際的なものとが、結びあわされていた。氷と霜の通路には、アンモニア化合物の冬と雪片が吹き荒れている。あの巨大な炉から飛び散った火花は、この船の冷たい外皮にぶつかって消えてしまうし、どんな炎も、ここにまどろんでいる二月の厳寒をつらぬくことはできないのである。

 

イギリスの詩人・批評家のコールリッジが用いた「不信の自発的停止」という概念があります。

詩や物語に描かれた虚構を、読者が一時的に「真実」として受け入れ、「こんな事はありえない」という不信を自ら棚上げして、作品の世界にひたる状態を意味しています。

もちろん、読者が「不信の自発的停止」を起こすかどうかは、創作者の技量次第というわけです。

ブラッドベリは、誰にも似ていない独特の作品世界を創りあげ、読者に不信を棚上げさせる技に優れていました。 

 

ブラッドベリがやってくる―小説の愉快

ブラッドベリがやってくる―小説の愉快

 

 

1961年から1986年のあいだに発表された9編のエッセイを集め、さらに8つの詩を加えた『ブラッドベリがやってくる──小説の愉快』では、全編にわたり「書くこと」への情熱が綴られています。

 

彼は「書いていて何がわかるのか」と自問し、以下のように答えました。

 まず第一に、われわれは生きているということがわかる。そして、生きているのは特別にあたえられた状態なのであって、もとからの権利ではないともわかる。ひとたび生命なるものを授与されたなら、今度は生命を保つべく働かなければならない。生きて動けるようにしてもらえた者は、生命から見返りを要求される。

 われわれの芸術は、こっちから期待するほどの救いにもならなくて、戦争、窮乏、羨望、我欲、老齢、死といったようなものを防ぎきってはくれないが、そのまっただなかにある人間を再活性化することはできる。

 第二に、書くことはサバイバルである。いかなる芸術も、良質の芸術であるならば、すべてそうである。

 かなりの人間にとって、書かないということは死につながる。

 

 生命の木にのぼり
 自分に石をぶつけ
 骨も折らず、魂もくじけずに
 また降りてくる法
 本文にくらべて
 さほど長くもないタイトルの
 ついた序文 
より

 

生命から要求される「見返り」とは、心の底から好きになれることを見つけ、それに熱意を注ぎ続ける行為なのかもしれません。

そのとき手近にあるものを、追いかけ、見つけ、すごいと思って好きになり、素直に反応していく。あとから振り返って、つまらないものに見えても、そんなことはどうでもよろしい。〈中略〉

詩神(ミューズ)に栄養をとらせる術は、要するに「好きなもの」を追いかけること、また現在および未来の自分が必要とするものと、そういう「好きなもの」を比較検討すること、簡単な性質のものから、より複雑なものへ、情報や知性に乏しいものから豊かなものへ移っていくこと、と言えるだろう。およそ無駄になるものはない。 〈中略〉

 詩神には、はっきりした形がいる。一日に千語の割で、十年から二〇年も書いてみたら、詩神に格好がついてくるだろう。文法やストーリー構成について、それが無意識に組みこまれる程度にわかってきて、詩神に無理な負担をかけなくなるのだ。 

 

 『いかにして詩神を居着かせるか』より

 

 ブラッドベリ自身、12歳でおもちゃのタイプライターを叩きはじめてから、1日千語ずつ書き続け、10年後の22歳のとき「ようやく本当にいいものが書けたと思った」といいます。初めて原稿料を得た短編『みずうみ』が生まれた瞬間です。

 

 

『太陽の黄金の林檎』で、宇宙船〈金杯号〉が太陽から杯ですくいとってきた『火』は、核融合エネルギーを象徴していると解釈することができます。

現在、原子力発電では、核分裂によって熱エネルギーを発生させていますが、核融合は、エネルギーの長期的な安定供給と環境問題の克服を両立させる将来のエネルギー源として期待され、世界中の科学技術者が研究に取り組んでいます。

物語のなかで宇宙船の船長が、

「さあ、これがエネルギー、火、震動、何と言っても構わない、それの入った杯だ。これでもって町の機械を動かしてくれ、船を走らせてくれ、図書館を明るくしてくれ、子供たちの顔色をよくしてくれ、毎日のパンを焼いてくれ」

と述懐しており、まさに「地上に太陽をつくる」とも例えられる核融合エネルギーそのものだと受け取れます。

 

また同時に、

「杯が太陽の中へ沈んだ。それは少量の神の肉をすくいあげた。宇宙の血、輝く思想、まばゆい哲学。それこそが銀河を動かし、惑星の配置を定め、生命の存在を命じたのだ」

という言葉には、ブラッドベリが生涯追い求め、この世に送り出してきた数々の物語こそ、太陽の黄金の林檎たち、なのではないかと思わせるものがありました。

 

 

創業百年目のタイムトラベル(創作掌編)

 

『伝統と変化』を社是とする老舗製菓会社・翠雨堂(すいうどう)は、創業百年を迎えるにあたり、タイムマシンを使った記念イベントを実施した。

 近年、民間企業によるタイムトラベル事業が現実化したとはいえ、高額な料金に加えて、厳しい制約も課せられるため、まだまだ気軽に利用できる段階でない。

 それだけに、話題性と宣伝効果が見込めると、社長の四代目宗助は考えたのだった。

 

 時代の流れに沿った大衆向けの菓子を製造販売する一方で、創業当時の和菓子の味を守り続けてきた翠雨堂である。天才的な菓子職人だった初代宗助が考案した生菓子「翠雨」は、変わらぬ伝統を誇る看板商品となっていた。

 百年前に作られた「翠雨」を持ち帰り、試食会を開いて、現代の「翠雨」と食べ比べること、それが今回のタイムトラベルの目的であった。

 

 もちろん「過去への干渉」及び「歴史改変」は禁止されているので、そっくりの代替品として現代の「翠雨」を持って行き、交換してくるのである。タイムトラベラーは四代目宗助、そして、マシンのオペレーターと特別添乗員の計三名だった。

 無事、持ち帰ってきた「翠雨」は、そのまま、甘味界の著名人が待つ試食会場に運ばれ、その見た目と味わいが、百年のあいだ変わっていないことが明らかになった。

 創立百年記念イベントの動画はネット配信され、ソーシャルメディアで拡散し、情報番組のトピックニュースにも取り上げられた。予想を上回る成功である。

 

 

 その晩、翠雨堂の社長室では、宗助と娘の真希が、硬い表情で対峙していた。

「お父様がなぜ、耕市さんとの婚約を賛成してくださらないのか……。記念イベントが終わるまでは、答えを待てとのことでしたので、今日まで待ちました。けれど、どんな理由であっても、私の気持ちは変わりません」

 口調には決意がにじんでいる。

 真希が言うのも、もっともなことだ。翠雨堂のセキュリティシステムを担当している耕市は、優秀な好青年というだけでなく、初代宗助と二人三脚で店を守り立てた番頭、耕太郎の子孫でもある。一人娘の結婚相手として、申し分のない若者なのだ。

 

 宗助は静かに立ち上がり、金庫から古めかしい帳面を出してきた。

「これは一家相伝の重要書類、初代宗助が書き記した和菓子の制作日誌だ。さまざまなことが、実に細かく正確に記録されている。今回、タイムマシンで百年前の厨房へ行ったわけだが、この日誌があったからこそ、最適な日時を決められたのだよ」

「はい、初代がただ一人で、百個もの『翠雨』を作りあげ、初めて店売りした日ですね。斬新で独創的な生菓子ということで、大評判になったと聞いています」

「翠雨堂にとって記念すべき吉日だった。ところが日誌を見ると、その日の頁には走り書きで、まことに不穏な内容の文章が残っているのだ」

 

 宗助は開いた帳面を真希のほうへ向け、該当の箇所を指差した。

 そこには、乱れた筆跡で、兄弟同然に信頼してきた番頭への不信感が綴られていた。

「裏切り」……「しかし、何一つ証拠はない」……「信じ難いが、耕太郎の仕業としか考えられぬ」

 読み取れる言葉をつなぎ合わせ、真希は顔をこわばらせた。

 

「日誌のこの言葉が心に引っ掛かり、すぐには耕市君とのことを認められなかったのだ。時代錯誤なこだわりだといえばそれまでだが、初代に申し訳が立たない気がしてね。真希にはすまないと思っている」

 宗助は頭を下げ、ほろ苦い表情で話を続けた。

「それでな、私は一計を案じたのだ……」

 

 計画とは、タイムトラベルで百年前のその日を訪れた際、添乗員の目を盗んで初代宗助に会い、耕太郎の「裏切り」とは何なのかを尋ねる、というものだった。

 夜明け前から始めた渾身の菓子作りを終え、初代が自室で仮眠をとっていることは、日誌の記述により判っている。

 ところが、

「厨房で菓子の交換を終え、現場チェックとマシンの設定に余念がない二人の隙をついて抜け出すつもりが、あっさりばれて取り押さえられてしまった。彼は添乗員というより、監視員だったのだな」

 記念イベントは成功したが、宗助の計画は失敗に終わったのだった。

 

「タイムトラベルで決まりを破れば、厳しいペナルティが課せされるはずです。お父様は危険を冒して、事の真相を確かめようとなさったのですね」

 真希は表情をやわらげ、脇に置いてあった書類入れから、一枚の紙を取り出した。

「実はこれ、ある資料のコピーですが、読んでみると、お父様が耕太郎さんに対して、百年前に『借り』をつくったことがわかります。その借りを返す意味でも、私たちの婚約を認めてください、と説得するために用意したものです」

「どういうことだね? これもまた、古い日誌のようだが」

「耕市さんの家で保管されている、耕太郎さんの日記です。中身はまるで業務日誌のようですが、問題の日には、こんなことが書かれています」

 

「翠雨」の初売りの日、奇妙なことが起こった。

作り上げた百個のうち、十数個がすり返られていると、宗助さんが言い出したのだ。私から見れば、味も形も同じ菓子としか思えないのだが、何かが違うらしい。

宗助さんは、競合相手の菓子屋の仕業ではないかと疑っているが、そんなはずのないことは私が一番良く知っている。

何故なら、宗助さんが厨房を離れているあいだ、出入り口が見える場所で張り番をしていたのは、他ならぬこの私だからだ。

 

 真希は、呆然としている父親に向かい、ほほ笑みながら告げた。

「さすが天才菓子職人ですね。現代のものと交換された『翠雨』が、ご自分の作った菓子ではないと見抜かれたようです。日記によれば、この日からしばらくのあいだ、初代は耕太郎さんに八つ当たりのような態度をとっていたとか。温和な耕太郎さんがさりげなく受け流しているうちに、徐々におさまったみたいですけれど」

「……そうか、私が計画したタイムトラベルが原因で、あらぬ疑いをかけられて苦労したわけか」

 宗助は肩を落としてうなだれた。

 

 数日後、翠雨堂の社内に、二つのニュースが流れた。

 一つは、真希と耕市の婚約。

 もう一つは、社是『伝統と変化』が、

『伝統と変化、そして軌道修正』に変わったという発表である。

 

 

 

水鏡(創作掌編)~ハヤさんの昔語り#2-7~

 

『真実の顔を映す鏡』というものを見てきた。

 普段、私たちが鏡のなかで見慣れているのは、左右反対の顔だ。それを反転して映す鏡がリバーサル・ミラー「反転鏡」で、一般に販売もされている。たまたま立ち寄った店で見掛け、興味津々でのぞき込んだのだった。

 

 外出から戻り、ハヤさんに報告すると、

「ずいぶん違って見えましたか?」と聞かれた。

「それほどでもなかった。期待が大きすぎたのかしら」

「文字だって鏡に映すと、印象が大きく変わって見える字と、ほとんど変わらない字とに分かれますよね。例えば瑞樹さんの『樹』と、同じキでもモクのほうの『木』とか……」

 

 話している途中で、江戸から明治にかけて行者として過ごした前世の記憶がよみがえったらしく、ハヤさんはふと言葉を途切らせ、おもむろに昔語りを始めた。

「そういえば、僕が昔、寸一だった頃──」

 

   △ ▲ △ ▲ △

 

 誰にも言えぬまま、心に重荷を抱える者は、カガミ沼に引き付けられるという。

 底知れない沼のほとりに立ち、水鏡に映った己の影と出会う。逆さまに浮かぶその姿は、ひどくゆがんで見えるのだそうだ。

 後悔と恨みが凝り固まった醜い顔。それでも目を背けずに踏み止まっていると、やがて、沼底から白く光る大蛇が現れ、水影を一息に吞み込んでしまう。

 すると、憑き物が落ちたように、心中が平らかになるというのだ。

 

 余程の事がなければ、自ら進んで、そのような恐ろしい目に遭いに行く者はいない。

 寸一も、嘉兵衛から請われるまで、カガミ沼に足を向けたことはなかった。

 

 名主の家柄に生まれ、村の人々からの信望も厚い嘉兵衛だが、どうしたはずみか気の病を患うようになった。

 独り考えあぐねたすえ、ある日、カガミ沼へ向かったという。

 水面に映るおぼろげな影に、ひたすら目を凝らす。

 どれほど時が経ったのか判然としなくなった頃、突如として、はっきりと顔が見えてきた。

「しかし、噂に聞いていたようなものではありませんでした」

 嘉兵衛は声をひそめ、寸一に語った。

 

「たしかに私の顔でありながら、とてもそうとは思えない。それほど、福々しい恵比須顔だったのです。しかも、しきりに話しかけてくるのですが━━」

 水鏡に映った恵比須顔の口から出てきたのは、すべて、嘉兵衛に向けたほめ言葉だった。ほめて、ほめて、ほめちぎった、という。

「初めのうちは、狐狸の類に化かされているのかと疑いましたが、亡き母さえ知らないはずの昔の出来事や、自分でも忘れていたようなささいな行いまでほめられているうちに、どうにも泣けてきて困りました」

 白い大蛇が現れることはないまま、日が暮れ始め、水影は薄闇に溶けて消えた。

 

 以来、不思議なほど胸の内が明るくなったそうだ。

 末の娘などは嬉しそうに、

「いつも噛みしめていた苦虫がいなくなった」と、言っている。

 心穏やかな日々の有り難さを身にしみて感じるにつれ、生真面目な嘉兵衛は、カガミ沼の主へ返礼をしていないことが気になった。

 かつては若い娘を人身御供としたのだとか、そんな痛ましい話も伝え聞くが、もう大昔のことだ。

「ならば代わりに、美しい絵姿を描いて奉るのが良いのではないかと思い立ちまして、慣れぬ絵筆に四苦八苦していたところ、見かねた末娘が手伝ってくれました」

 気恥ずかしげに言い、絵を広げてみせる。

 

「これはこれは、見事な出来栄えではありませんか」

 寸一は感心した。

「顔を突き合わせて描いたせいか、姿かたちが娘に似てしまい、それがまた、気がかりでもあるのです。万が一、沼の主様に気に入られて神隠しにあったら……」

 それならば、ということで、寸一は嘉兵衛に同行しカガミ沼へ赴いた。

 静かな沼だ。

 遥か昔、神が村を救い、村人が生贄を差し出した。

 繰り返されるうちに、娘を奪われた怨嗟の声が上がり始め、いつしか、神であったはずのものが、退治されるべき化け物と見なされた。

 そのような深く荒々しい係わりも、時の流れと共に薄れ、今では淡い気配が漂っているばかりだ。

 

 寸一にうながされるまま、嘉兵衛は娘によく似た絵姿を沼に浮かべ、

「足腰の立つ限り、毎年御礼に参ります」

 と、手を合わせ深々と頭を下げる。

 絵は、水の面をゆっくりと滑るように動いていき、沼の中ほどで沈んだ。

 

   △ ▲ △ ▲ △

 

 私は聞かずにはいられなかった。 

「寸一の判断を疑うわけではないけれど、その後、末の娘さんは大丈夫だったの?」

「はい。それどころか、間もなく良縁に恵まれてお嫁に行きました。こういうことは誰とはなしに伝わっていくらしく、いつしか嘉兵衛さんのもとには、絵姿を沼の主に奉納してもらいたいというモデル志願の娘さんが、次から次へと訪れるようになったそうです」

「あらまあ……」

「何年かたって、寸一が嘉兵衛さんと顔を合わせたときには、すっかり福々しい恵比須顔になっていたとか」

 

 笑いながら、つくづくとハヤさんの顔をながめる。

 思えば、私たちはよく話をするので、鏡に映る自分の顔より、ずっと長く相手の顔を見ているのだ。

 私の視線を感じたハヤさんは、何か誤解したようで、

「よかったら、瑞樹さんのことをほめちぎりましょうか」

 と、言った。