クロースアップマジックと出合ったことは、人生最大の驚きと喜びだった。
至近距離で繰り広げられる、カードやコイン、ロープ、リングのテーブルマジックに魅了され、そのマジシャンがオーナーをしているマジックショップに通いつめたものだ。
そして、幸運にも、私はプロのマジシャンになることができた。
三十数年が経ち、今度は私のほうが、マジックバーにやってくる初心者たちの質問に答えている。
なかでも特に熱心なのは、西山君という学生だ。
その繊細で美しい手からは想像もつかないほど不器用で、技術を身につけるためには、人一倍の努力が必須となるだろうが、なんといっても彼にはひたむきな情熱があった。
ただ単純に「好きだ」と思える気持ちは最強であり、労苦すら楽しみに変えてしまう。
私は時間の許すかぎり、彼の練習に付き合い、成長を見守っていた。
「必要な技術を習得するまで、たとえ十年でも二十年でも、先生に付いていきます」
と、西山君は真顔で言う。
私にとって彼は弟子というより、スタートの時期が違うだけの仲間であって、同じ道を歩み、高みを目指す同志なのだ。「先生」と呼ばれることは不本意だったが、こればかりは何度言っても聞き入れてもらえなかった。
時間は充分にあると思っていた。
西山君は、いずれ郷里へ帰って家業を継ぐことが決まっていたものの、それはまだずっと先の話だったからだ。
しかし、人生は何が起こるかわからない。
毎日のように通ってきていた西山君が、数日間姿を見せず、めずらしいことだと思っていたところに、突然、電話がかかってきた。
「先生、父が狭心症で緊急手術を受けました。手術は無事成功して、経過も順調ですが、今まで通り仕事を続けるのは難しそうです」
落ち着いて説明する声に、失望が隠れていた。
ひと月ほど経ったある日、西山君が別れの挨拶にやってきた。
大学を中退し、帰郷する決意をしたという。
「さいごに、僕のマジックを見てください」
少しこわばった笑顔で言った。
新しいトランプの封を切り、まず2枚のジョーカーを抜き出して、脇へ置く。
残りのカードをシャッフルしてから、伏せたままテーブルの上に、弧状のリボンスプレッドで広げた。
「1枚、選んでください。そして、そのカードにサインをしてください」
私が引いたのは、ハートの5。
サインペンで大きく名前を書いてから、元に戻す。
西山君は、再びカードを切り混ぜたあと、初めに取り出しておいた2枚のジョーカーを表向きのまま、いちばん上と下にセットした。
片手でカードの束を持ち、ひと振りすると、ほとんどのカードが、軽やかな音をたててテーブルの上に振り落とされる。
ジョーカー2枚に挟まれて、ただ1枚残ったカード、それは、私が先ほどサインしたハートの5だった。
有名なサンドイッチ・カードというマジックの、シンプルなバージョンだ。
けれど、西山君は独自のバリエーションを加えていた。
「どうぞお確かめください。先生が選んだカードに間違いありませんね?」
と促されて手にしたハートの5には、小さなメッセージカードが貼りついていたのだ。
これまでほんとうに
ありがとうございます
先生と出会えたこと
それは僕にとって
最高のマジックです
メッセージのひと文字ひと文字から、真情が伝わってきて、涙を禁じえなかった。
「そのサインカード、記念にいただいてもいいですか?」
私はうなずき、メッセージを丁寧にはがしてから、ハートの5を渡した。
悲しみをこらえるようにうつむいて、受け取ったカードに視線を落とした彼の目が、大きく見開かれる。
そこに書いてあるのは──、
「Be natural, Be yourself」
(自然であれ、君自身であれ)
偉大なマジシャン、ダイ・バーノン氏の言葉だ。
西山君
私はいつでも、君の幸福と健闘を祈っている。
「いつのまに……?」
つぶやく西山君の頬に、ゆっくりと赤みがさし、口元には笑みが浮かんだ。
マジックは、驚きと喜びをもたらすのだ。