【前回の掌編の続きです】
晶太が銀ひげ師匠の弟子になり、魔法の修行を始めてから半年経った。
師匠の営む書道教室に通いつめ、基本の魔法「見えずの墨」を会得したときのことは忘れられない。
一意専心で磨り終えた墨に向かい、口伝えで教わった「ウタ」と呼ばれる呪文を唱えていると、突然、胸のなかに言葉が舞い落ちてきたのだった。
ひらがなで5文字の短い言葉。
それこそ、硯の海に溜まった墨の神様が、晶太の挨拶に応え返してくれた合言葉だった。
前に師匠から、
「授かった言葉は、心の眼で読みとるのだ」
と聞いたときは、むずかしそうだと思ったけれど、いざとなったら自然にできてしまった。
晶太はすぐに合言葉を復唱し、続けて新しい「ウタ」を唱えた。今度は「自分だけに見える墨に変わってください」と頼むための呪文だ。
漆黒の墨が一瞬で、透明になった。
「そこの半紙に書いてごらん」
一部始終を見守っていた師匠が言う。
筆に含ませると水のようだけれど、紙に書いてみれば、くっきりと黒い。それでも、普通の墨の色とは違っていて、ひと目で見分けがついた。
「上出来だ。これからは、授かった合言葉を書き足していきなさい。専用の文箱をあげるから、そこにしまっておくといい」
「ありがとうございます」
準備運動が済んで、本格的に魔法の修行が始まるような気がした。
「前に師匠がやったみたいに、タヌキの毛の筆に魔法をかけてみてもいいですか?」
「やめとけ。初心者にタヌキは少々ハードルが高い。それより、身近にあってよく知っているもの、ずっと好きだったものから始めたほうがいい。やがてだんだんと、得意分野が明らかになってくるよ」
植物、鉱物、人工物、自然現象に動物……。
魔法使いにとって、持って生まれた得意分野を知ることは、とても大切なのだ。
小学校さいごの夏休み、師匠のアルバイトのお手伝いでやった「草むしり」を、晶太は自由研究のテーマにした。
学校の宿題と魔法の修行、一石二鳥だ。
師匠は、自分の書道教室で教えるほかにも、高齢者福祉施設などへ出張指導に行っている。外では墨汁もOKということにしているので、けっこう依頼があった。
そういう場で知り合いになったのが、地元のシルバー人材センターで「空き家見守りサービス」を担当している人だった。たまにアルバイトを頼んでくるらしい。
書道とは関係のない仕事だ。
志野さんというおばあさんが、1年ものあいだ家を留守にしていた。
病気で手術をして長期入院し、退院したあとも、娘さんの家で療養していたのだ。
長く家を空けることがわかっていたので、空き家の見守りを申し込んだ。定期的に巡回して、不審者が入り込んでいないか、窓ガラスなどがこわされていないかをチェックしてくれるサービスだ。
敷地の外から確認するだけだから、誰も住んでいない家が荒れた感じになってくるのは防げない。
それで、ようやく帰宅できることが決まった志野さんは、ハウスクリーニングを追加注文したのだった。
銀ひげ師匠が頼まれたのは、家周りのペンキ塗りと補修。書道の師範になる前、家の内外装や、ビルメンテナンスの職にも就いていたという経歴があるからだ。
「晶太のために、庭の草むしりも引き受けておいた。魔法を実践できる良い機会だぞ」
といって、コピーした写真を見せる。
自宅の庭に立つ、志野さんが写っていた。
ふっくらと優しそうな顔に笑みを浮かべているけれど、眼は真剣そのものだ。
「入院する前日、志野さんに頼まれて、娘さんが撮ったという写真さ。大切に世話していた庭も一緒に写っている。この写真を、闘病中そばに置いていたらしいね。『必ず帰ってくる』という決意が、顔に表れてるなぁ」
「花壇にきれいな花がたくさん咲いている」
「昨日、下見してきたら、庭一面が藪みたいになっていたよ。晶太の仕事は、単なる草むしりじゃない。抜くべき草だけを抜いて、できるだけ元の姿の庭に近づけてほしい。それには魔法の力も使わないとな」
晶太のなかで、アルバイトのお手伝いが『ミッション』に変わった瞬間だった。
8月の蝉時雨と照りつける日差しの下で、晶太は10日間を過ごした。
作業は朝早くに始めて、日が高くなる前には切りあげる。冷えた飲み物をつめたクーラーボックスに梅干し、麦わら帽子と首に巻くタオルは必需品だ。
移植ゴテやクマデ、ねじり鎌などの道具を、師匠が貸してくれた。
初めて見る物もあったけれど、使い方のコツは道具から直接教わった。
「きちんと作られた道具というものは、自らの使いやすさを知りつくしている」
と聞いたからだ。
晶太は、今を盛りと生い茂る藪に立ち向かっていった。
まず、元々庭に生えていた「お庭組」なのか、それとも外からやってきた「野原組」なのかを確かめなければならない。
一群れずつ、その植物を司る神様に挨拶して、合言葉をいただき、尋ねる。
そして「野原組」ならば、引き抜いてしまうのだ。
胸の奥がチクッと痛んだけれど、そのたびに志野さんの笑顔とミッションを思い出しては、次へ向かう。
長そでの作業着と園芸用の手袋でガードしていても、いつの間にか腕のあちこちを草で切っていて、汗が流れると小さな傷に染みた。
ときどき「お庭組」に出合うのが、晶太はうれしかった。「野原組」の勢いに押され、ぐったりしていることが多かったけれど、もうすぐ志野さんが帰ってくることを伝えて、元気を出すように頼んだ。
その日の作業が終わると、師匠と一緒に書道教室へ戻る。
晶太は新たな合言葉を半紙に書き足したあと、師匠のパソコンを借りて、引き抜いた「野原組」の草たちの名前を調べた。レポートにまとめれば、自由研究の出来あがりだ。
「どうだ、調子は?」
「はい、順調です。師匠はどうですか?」
ひびわれた古いペンキを削り落として、サンドペーパーをかけた後、下塗り、中塗り、上塗りをすると聞いたけれど、今がどの段階なのか、見ただけではわからなかった。
「いよいよ明日から仕上げに入るよ。来週にはシルバー人材のハウスクリーニング部隊が来るからね。水道や電気もちょっと見てあげる約束なんだ」
師匠が作業中にどんな魔法を使っているのか、気になって質問したら、
「うーん、塗りたてのペンキに虫がとまらないよう頼むくらいかな」
という答えだった。
家と庭が見違えるほどきれいに整い、すべてのミッションを果たしてから2日後、晶太は銀ひげ師匠と共に、とあるビルの外階段の踊り場にひそんでいた。
かなり距離はあるけれど、ちょうど志野さんの家を正面から見下ろすことができる場所だった。
「あのタクシーじゃないかな?」
と、師匠が指さす。
今日、この時刻に、志野さん母娘は、シルバー人材センターのスタッフと会って、作業完了の確認をすることになっているのだ。
師匠がお掃除部隊のひとりから、さり気なく聞き出してきた情報だった。
「さいごまで見とどけたい」
という晶太に協力してくれたのだった。
タクシーが家の前に止まり、大きな荷物を持った女の人が降りる。
続いてゆっくり降りてくる志野さんを見て、晶太は胸が突かれる思いだった。
写真の姿よりも、ひと回り縮んでしまったようにやせていた。杖にすがりながら、一歩ずつ歩き始める。
そして、晶太は見とどけることができた。
庭の小道を歩いて家の扉を開けるまでのあいだに、弱々しかった志野さんの背中がすっと伸び、生き生きとした力を取り戻していくところを━━。