かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

仲直りの怪談(創作掌編)~ハヤさんの昔語り#2-1~

 

 私は、慎重に準備を整えてから行動に移す性格だが、ハヤさんと暮らし始めたときは、全く違っていた。

 必要最小限の日数で、追い立てられるように珈琲店の2階へ引っ越してきたのだ。

 新婚家庭的な要素は皆無、奇妙な共同生活の開幕である。

 

 いくら宿命の相手とはいえ、それまで別々に暮らしてきた人間同士が、いきなり生活を共にするわけだから、 多少の行き違いはやむを得ない。

(人当たりのいい常識人だと思っていたが、けっこう変わり者だ)

とは、お互い様な感想だった。

 幸いにも居住スペースに余裕があり、自分の仕事部屋を確保できた。気詰まりなときは、そっと自室に引きこもる。

 しばらくすると、まるで頃合いを見計らったかのように、珈琲の香りが漂ってくる。

 誘われるようにキッチン兼居間へ行くと、

「ちょうどよかった。今、呼びにいこうと思っていたところです」

 ハヤさんが微笑みながら言った。

 

 淹れたての珈琲を前に、向かい合って席に着く。

「瑞樹さん、怪談は苦手じゃないですか?」

「夜中にトイレに行けなくなるほど怖くなければ」

と、私は条件を付けた。

「そんなに怖い話じゃありません。それに、この僕がいるじゃないですか」

 前世で、寸一という行者だったことがあるハヤさんは、涼しい顔で応じた。

 

   △ ▲ △ ▲ △

 

 寸一が修行の旅に出ていた折りのことである。

 夕闇の迫るなか、海沿いの道を足早に歩いていると、波打ち際に若い男が一人、悲嘆に暮れた様子で立っているのが目に入った。 

 見過ごすわけにもいかず、近寄って声をかける。

 男は伍平と名乗り、先の津波で妻のおユイを亡くしたことを、暗い眼で語った。

 

「女房恋しさのあまり、日が暮れると浜に足が向いてしまう。たとえ亡霊であっても、もう一度会いたいと念じていたら──」

 思いが通じたのか、ある時ついに、おユイが姿を現したという。

 ところが、おユイは一人ではなかった。となり村に住む従兄弟、フクジと一緒だったのだ。

「昔、似たような話を聞いたことがあった。亡くした女房に会うのだが、あの世で他の男と夫婦になっていると知らされる。それがまさか、我が身に起こるとは……。子供の頃、フクジとおユイは兄妹のように仲が良かったそうだ。きっとフクジもあの日、同じ波にさらわれて死んだのだろう」

 それでもかまわない、せめて何とか話がしたいと思い、追いかけてみたが、どうしても近付けず、大声で呼んでも、おユイの耳には届かないようだった。

 

「ほら、お坊様。今日もあの岩の上におユイが現れた。また、フクジと一緒だ」 

 がっくりと座り込んだ伍平に、寸一は申し出た。

「それなら私が、おユイさんに伝えてやろう。恨み言だろうと、何だろうとかまわないから、思いの丈を吐き出してごらん」

 伍平は大きく眼を見張り、それから固く閉ざした。食いしばった歯の隙間から、言葉を絞り出す。

「どうして、俺一人を残して逝ってしまった。お前のいないこの世には、もはや何の未練もない。お前の後を追って、俺は海に身を投げようとしたのだ。それなのに、他の男と仲睦まじげに現れるとは……」

 声を途切らせて、むせび泣く。

 

「伍平、もう日が落ちる。暗闇に紛れてしまう前に、おユイさんの姿をよく見るがよい。手に何か持っているようだが?」

「あれは花だ。おユイは花が好きで、俺が道端で摘んで帰ると大喜びしたものだった。そうか、今はフクジが摘んでやっているのだなぁ」

 その瞬間、おユイが海に向かい、束ねた花を放り投げた。

 伍平は不思議そうに首をかしげ、

「なぜ、花を投げ捨てたのだろう?」と、つぶやく。

 寸一は静かに答えた。

「投げ捨てたのではない、手向けたのだ。伍平、津波で命を落としたのは、おユイさんではなく、お前だったのだよ」

 

    △ ▲ △ ▲ △

 

 「哀しい話ね。自分のほうが幽霊だったと知って、伍平さんはどうしたの?」

 聞くと、ハヤさんは少し笑って答えた。

「最初に会ったときは、無明の闇をさまよう幽鬼にしか見えませんでしたが、元は快活な人だったのでしょう。気づいてからの変わりようが見事でした」

 

 状況を理解した伍平は、勢いよく立ち上がり、

『こんなところで嘆いている場合じゃねえ。一刻も早く成仏とやらを果たし、おユイを見守ってやらねば。お坊様、いったい俺はどうすればいい!』

と、寸一に詰め寄ったそうだ。

『光を探し、その光の方へ向かえばよい』

 教えてやると、伍平はすぐに四方八方を見渡し、暗い海に差す不思議な光を見つけた。一筋に続く光の道が、海の面からゆるやかに、夜空へ向かって伸びている。

『あれだ! お坊様、まことにありがとうございました』

 深々と頭を下げるやいなや、一目散に走り出した。

「海から天へと、まるで坂道を駆け上がっていくようでした。あっという間に行ってしまいましたね」

 

 伍平との約束を守り、寸一はおユイのところへ伝言を届けにいった。

 すっかり日の落ちた岩の上では、なかなか帰ろうとしないおユイを、フクジが説得しているところだった。

 驚く2人に寸一は、伍平の亡霊に会ったこと、そして、伍平がおユイを守護するため、今しがた成仏を遂げたことを告げる。

「話しているうちにわかったのですが、どうやら、おユイさんも伍平の後を追うつもりでいたようです。そのことに気づいたフクジさんは、弔いの日からずっと、自分の家族と共に泊り込んで、おユイさんから目を離さないようにしていたのです」

 寸一の話を聞いたおユイは、堰が切れたように泣き崩れたという。

 

 「さほど怖くなかったでしょう?」

「うん。私はもう少し怖い話を知ってるよ。文字にしたら28字くらいの、すごく短い話でね──」

 語り出そうとする私をさえぎって、ハヤさんが口早に言った。

「瑞樹さん、そのお話は明日、明るくなってから聞くことにします」

 

 

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伝聞怪談

 

時節柄、そこかしこで怪談のブログ記事を目にしました。つい、検索もしました。

怖がりの怪談好きなので、興味津々で拝読しては、夜中に思い出して戦慄しています。

 

私自身は霊感が強くありませんが、職場に霊感体質の人がいて、たまに怖い話で盛り上がっています。霊を見たり聞いたり感じたりしても、淡々とやり過ごし、しかるべく距離を置いて社会生活を送っている方たちは、少なからずいらっしゃるようです。

聞いたなかで、特に印象に残っている話があります。

ほどよい怖さの話ですが、とても短いので、内容はそのまま掌編風に、少しカサ増ししてみました。

 

    △ ▲ △ ▲ △ 

 

 20年以上前の話である。

 長いこと闘病していた親族が亡くなり、病室から地階の霊安室へ運ばれた。

 彼は安置された遺体のそばで、しばらく家族と葬儀の相談などをしていたが、尿意を催し、霊安室を出て同じフロアにあるトイレに行った。

 明るく静かなトイレ。

 他に使用している人はいない。

 用を足して、洗面台で手を洗い終え、ふと顔を上げると、一般的なトイレならば必ずあるはずの鏡が、取り外されていた。

(ああ、ここに鏡があると、映るはずのない何かが映ってしまうのだろう)

と思い、そのまま霊安室へ戻った。

 

    △ ▲ △ ▲ △ 

 

 実際に聞いたのは、

霊安室の隣のトイレってさ、洗面台の鏡が外されてるんだよね」(28文字)

「それは、つまり……」

「映っちゃいけないモノが映っちゃうからじゃない?(笑)」

 

しばらくは、夜遅くに、洗面所の鏡を見るのが怖かったです。

 

 

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自由研究(創作掌編)~銀ひげ師匠の魔法帖②~

 

【前回の掌編の続きです】

toikimi.hateblo.jp

 

 晶太が銀ひげ師匠の弟子になり、魔法の修行を始めてから半年経った。

 

 師匠の営む書道教室に通いつめ、基本の魔法「見えずの墨」を会得したときのことは忘れられない。

 一意専心で磨り終えた墨に向かい、口伝えで教わった「ウタ」と呼ばれる呪文を唱えていると、突然、胸のなかに言葉が舞い落ちてきたのだった。

 ひらがなで5文字の短い言葉。

 それこそ、硯の海に溜まった墨の神様が、晶太の挨拶に応え返してくれた合言葉だった。

 前に師匠から、

「授かった言葉は、心の眼で読みとるのだ」

と聞いたときは、むずかしそうだと思ったけれど、いざとなったら自然にできてしまった。

 晶太はすぐに合言葉を復唱し、続けて新しい「ウタ」を唱えた。今度は「自分だけに見える墨に変わってください」と頼むための呪文だ。

 

 漆黒の墨が一瞬で、透明になった。

 

「そこの半紙に書いてごらん」

 一部始終を見守っていた師匠が言う。

 筆に含ませると水のようだけれど、紙に書いてみれば、くっきりと黒い。それでも、普通の墨の色とは違っていて、ひと目で見分けがついた。

「上出来だ。これからは、授かった合言葉を書き足していきなさい。専用の文箱をあげるから、そこにしまっておくといい」

「ありがとうございます」

 準備運動が済んで、本格的に魔法の修行が始まるような気がした。

「前に師匠がやったみたいに、タヌキの毛の筆に魔法をかけてみてもいいですか?」

「やめとけ。初心者にタヌキは少々ハードルが高い。それより、身近にあってよく知っているもの、ずっと好きだったものから始めたほうがいい。やがてだんだんと、得意分野が明らかになってくるよ」

 植物、鉱物、人工物、自然現象に動物……。

 魔法使いにとって、持って生まれた得意分野を知ることは、とても大切なのだ。

 

 

 小学校さいごの夏休み、師匠のアルバイトのお手伝いでやった「草むしり」を、晶太は自由研究のテーマにした。

 学校の宿題と魔法の修行、一石二鳥だ。

 師匠は、自分の書道教室で教えるほかにも、高齢者福祉施設などへ出張指導に行っている。外では墨汁もOKということにしているので、けっこう依頼があった。

 そういう場で知り合いになったのが、地元のシルバー人材センターで「空き家見守りサービス」を担当している人だった。たまにアルバイトを頼んでくるらしい。

 書道とは関係のない仕事だ。

 

 志野さんというおばあさんが、1年ものあいだ家を留守にしていた。

 病気で手術をして長期入院し、退院したあとも、娘さんの家で療養していたのだ。

 長く家を空けることがわかっていたので、空き家の見守りを申し込んだ。定期的に巡回して、不審者が入り込んでいないか、窓ガラスなどがこわされていないかをチェックしてくれるサービスだ。

 敷地の外から確認するだけだから、誰も住んでいない家が荒れた感じになってくるのは防げない。

 それで、ようやく帰宅できることが決まった志野さんは、ハウスクリーニングを追加注文したのだった。 

 

 銀ひげ師匠が頼まれたのは、家周りのペンキ塗りと補修。書道の師範になる前、家の内外装や、ビルメンテナンスの職にも就いていたという経歴があるからだ。

「晶太のために、庭の草むしりも引き受けておいた。魔法を実践できる良い機会だぞ」

といって、コピーした写真を見せる。

 自宅の庭に立つ、志野さんが写っていた。

 ふっくらと優しそうな顔に笑みを浮かべているけれど、眼は真剣そのものだ。

「入院する前日、志野さんに頼まれて、娘さんが撮ったという写真さ。大切に世話していた庭も一緒に写っている。この写真を、闘病中そばに置いていたらしいね。『必ず帰ってくる』という決意が、顔に表れてるなぁ」

「花壇にきれいな花がたくさん咲いている」

「昨日、下見してきたら、庭一面が藪みたいになっていたよ。晶太の仕事は、単なる草むしりじゃない。抜くべき草だけを抜いて、できるだけ元の姿の庭に近づけてほしい。それには魔法の力も使わないとな」

 晶太のなかで、アルバイトのお手伝いが『ミッション』に変わった瞬間だった。

 

 8月の蝉時雨と照りつける日差しの下で、晶太は10日間を過ごした。

 作業は朝早くに始めて、日が高くなる前には切りあげる。冷えた飲み物をつめたクーラーボックスに梅干し、麦わら帽子と首に巻くタオルは必需品だ。

 移植ゴテやクマデ、ねじり鎌などの道具を、師匠が貸してくれた。

 初めて見る物もあったけれど、使い方のコツは道具から直接教わった。

「きちんと作られた道具というものは、自らの使いやすさを知りつくしている」

と聞いたからだ。

 

 晶太は、今を盛りと生い茂る藪に立ち向かっていった。

 まず、元々庭に生えていた「お庭組」なのか、それとも外からやってきた「野原組」なのかを確かめなければならない。

 一群れずつ、その植物を司る神様に挨拶して、合言葉をいただき、尋ねる。

 そして「野原組」ならば、引き抜いてしまうのだ。

 胸の奥がチクッと痛んだけれど、そのたびに志野さんの笑顔とミッションを思い出しては、次へ向かう。

 長そでの作業着と園芸用の手袋でガードしていても、いつの間にか腕のあちこちを草で切っていて、汗が流れると小さな傷に染みた。

 ときどき「お庭組」に出合うのが、晶太はうれしかった。「野原組」の勢いに押され、ぐったりしていることが多かったけれど、もうすぐ志野さんが帰ってくることを伝えて、元気を出すように頼んだ。

 

 その日の作業が終わると、師匠と一緒に書道教室へ戻る。

 晶太は新たな合言葉を半紙に書き足したあと、師匠のパソコンを借りて、引き抜いた「野原組」の草たちの名前を調べた。レポートにまとめれば、自由研究の出来あがりだ。

「どうだ、調子は?」

「はい、順調です。師匠はどうですか?」

 ひびわれた古いペンキを削り落として、サンドペーパーをかけた後、下塗り、中塗り、上塗りをすると聞いたけれど、今がどの段階なのか、見ただけではわからなかった。

「いよいよ明日から仕上げに入るよ。来週にはシルバー人材のハウスクリーニング部隊が来るからね。水道や電気もちょっと見てあげる約束なんだ」

 師匠が作業中にどんな魔法を使っているのか、気になって質問したら、

「うーん、塗りたてのペンキに虫がとまらないよう頼むくらいかな」

という答えだった。

 

 家と庭が見違えるほどきれいに整い、すべてのミッションを果たしてから2日後、晶太は銀ひげ師匠と共に、とあるビルの外階段の踊り場にひそんでいた。

 かなり距離はあるけれど、ちょうど志野さんの家を正面から見下ろすことができる場所だった。

「あのタクシーじゃないかな?」

と、師匠が指さす。

 今日、この時刻に、志野さん母娘は、シルバー人材センターのスタッフと会って、作業完了の確認をすることになっているのだ。

 師匠がお掃除部隊のひとりから、さり気なく聞き出してきた情報だった。

「さいごまで見とどけたい」

という晶太に協力してくれたのだった。

 

 タクシーが家の前に止まり、大きな荷物を持った女の人が降りる。

 続いてゆっくり降りてくる志野さんを見て、晶太は胸が突かれる思いだった。

 写真の姿よりも、ひと回り縮んでしまったようにやせていた。杖にすがりながら、一歩ずつ歩き始める。

  そして、晶太は見とどけることができた。

 庭の小道を歩いて家の扉を開けるまでのあいだに、弱々しかった志野さんの背中がすっと伸び、生き生きとした力を取り戻していくところを━━。

 

 

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スギライト(杉石)

 

スギライト(杉石)は、癒しと浄化の力がとても強いパワーストーンとして有名です。

ラリマー、チャロアイトと共に「世界三大ヒーリングストーン」というキャッチフレーズがついていますが、今のところはまだ、日本のみで通用している「世界三大」のようです。 

   Royalazel sugilite smithsonianmuseum 

 

私は、スギライトに『杖』のイメージを持っています。

旅路を支えてくれ、辛いときにはすがることができ、時には身を守る助けにもなる。

けれど杖は杖、歩くのも、考えて選択するのも、戦うのもアナタ自身ですよ、と諭しながら、それでいて優しく頼りになるスギライトなのです。

大好きな石のひとつです。

 

美しい紫色の石として知られていますが、うぐいす色、茜色、薄紅、グレー、黒、こげ茶など、色のバリエーションは豊富です。

f:id:toikimi:20180730125747j:plain 

英語表記は「Sugilite」なので、米国では「スジライト」とも発音されているそうですが、ここはぜひ、「ジ」ではなく「ギ」で、と願っています。 

 

私がスギライトに特別な親しみを感じるのは、
日本の岩石学者・杉健一(すぎ けんいち 1901~1948)博士によって発見され、
村上允英(むらかみ のぶひで 1923~1994)博士によって命名された鉱物だからです。

スギライトの「スギ」は杉博士の「杉」、米国宝石学会 (GIA)で公式に発表された貴石・宝石のなかで、日本人の名前がついた唯一の石だといわれています。

 

スギライトが杉博士により、愛媛県岩城島で発掘されたのは、1942年のことでした。(ちなみに「うぐいす色」)

2年後の1944年、日本鉱物学界に「未解決鉱物」として仮申請の後、岩石鉱物鉱床学誌に新種の鉱物として発表されました。

第二次世界大戦のさなかです。世界的・学術的に認められることはありませんでしたが、未来の日本岩石学へ貢献との想いが強かったようです。1943年に結核を発病し、ずっと病床についていた時期の、懸命な発表でした。

4年後、杉博士は47歳で亡くなります。

接した人のほとんどすべてが、彼のたいへん温和な人柄に感銘を受けており、その学風もまた、温和で調和的であったと評されています。

 

杉博士の研究を引き継いだのは、村上允英氏ら弟子たちでした。

1951年に開始された未解決鉱物の分析研究は、途中、当時の科学水準では分析が不可能と判断されて一時中断していた期間もありますが、高度経済成長に伴う科学の進歩による最新技術で、ついに分析に成功します。

国際新鉱物命名委員会にスギライトとして正式登録されたのは1974年 、正式認定は1975年でした。

 

発掘から命名まで、33年間ものタイムラグがある石なのです。

この間、1973年に南アフリカのウェッセルズ鉱山で発掘された紫色のスギライトが、「ウェッセルサイト」と誤報される事態も起こっていて、タイミング次第では、別の国で認定され、違う名前がついていた可能性もあったわけです。

 

村上博士は、分析研究中「岩城石」と呼んでいた石を、故杉博士に敬意を表し「スギライト(杉石)」と命名しました。

まさに、この石にふさわしい名前、この名前にふさわしい石だと思います。

  

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  杉健一博士(左)と 村上允英博士(右)

 

 

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最初で最後の弟子(創作掌編)

 

 晶太が通い始めた書道教室は、墨汁と筆ペンを使わない方針のせいか、あまり流行っていなかった。

 学童クラスはさっぱりだが、成人クラスの継続的な「生徒さん」たちのおかげで成り立っているのだ、と師匠は言っている。

 祝儀袋や不祝儀袋に書く名前くらいは上手に筆書きしたい、という動機で入門し、丁寧に磨った墨で名前の字を練習していくうち、書道に心の安らぎを見出した人たちだ。教室へ来る前は、なかなか思いどおりに書くことができない自分の名前を好きになれなかったという人もいた。

 

 師匠の短めに生やした髭は、黒と白の混ざりぐあいが、いぶし銀のような色に見える。晶太はひそかに「銀ひげさん」と呼んでいた。

 書道の師範は師匠の本業ではあるけれど、仮の姿でもあった。

 銀ひげ師匠の正体は魔法使い。晶太は書道ではなく、魔法の方の弟子なのだ。

 

 幼いころから晶太は、人が嘘をつくとすぐに気づいた。だまそう、ごまかそうとする嘘から、悪気のない嘘まで、全部わかってしまう。

 だから、

「君は、魔法使いの卵だ。よかったら私について修行してみるかい?」

とスカウトされたとき、素直に信じることができた。晶太がうなずくと、師匠はとても喜んだ。

「ありがとう! 魔法使いは弟子をとって初めて一人前といわれているのに、私は自分勝手に生きてきたせいで、今まで弟子がいなかったんだよ」

 そう言って、ちょっと涙ぐんだりもした。

 

 魔法の修行といっても、第一歩はとても地味なものだ。

 毎日、書道教室へ行き、他の生徒がいるときは、同じようにお習字をする。いないときも、まず、墨を磨る。

 墨を磨っているあいだは、一意専心、おしゃべりは禁止だった。

「師匠、日本にも、ホグワーツ魔法魔術学校みたいな学校があるんですか?」

「墨は磨り終えたかい?」

「はい」

といって、硯の海を見せる。

「よろしい。そうだね、日本にあるとは聞いたことがないな。ほとんどの魔法使いは落語家と一緒で、それぞれ師匠に弟子入りして技を学ぶんだ。物語には多くの真実が含まれているけれど、外国とはいろいろ事情が違うんだろう。晶太は、ゲドという魔法使いの物語を読んだことがあるかな?」

「ゲド? ありません」

西の善き魔女と呼ばれる人が書いた本で、特に1巻目は、今の晶太にお勧めだよ。魔法について、こんなふうに説明されている。森羅万象、あらゆるものには隠された真(まこと)の名があり、その名を知れば、相手を操ることができる。真の名を探り出し、神聖文字を唱えて支配する術、それが魔法だとね」

 晶太は目をみはって、師匠を見あげた。

「ぼくもこれから、そういうことを勉強するんですか?」

 

「いいや、少し違う。私たちは、あらゆるものにはそれを司る神がいる、と考えているんだ。八百万の神というわけだね。魔法は、その神様に挨拶するところから始まる」

「おはようございますとか、こんにちは、とか?」

「まあ、そういうことさ。唱える言葉は、かなり古めかしいけれど日本語で、独特の節をつける。これを『ウタ』という。つまり魔法の呪文だね。挨拶して親しくなると、やがて神様が合言葉を教えてくれる。挨拶する、通じ合う、それから、頼む、という順序だ」

「頼むんだ……」

「そうだよ。相手は神様、操ったり支配したりすることはできないからねぇ。ただ、強く心をこめて頼む。──とはいっても、八百万のなかにはさまざまな神様もいらっしゃるので、場合によっては丁々発止と渡り合うようなこともあるよ」

 学校の教室にいるときのように、晶太は手をあげて質問した。

「ぼくが入門してからずっとやってきたのは、どんな魔法の練習なんですか?」

 この1ヶ月間、師匠から口伝えで教わった「ウタ」を、磨ったばかりの墨に向かって唱え続けてきたのだった。

 

「うーん、質問されてしまったら仕方ない。ほんとうは内緒にしておいて、君をびっくりさせたかったのに」

 残念そうにつぶやくと、師匠は作務衣の懐から細身の巻物を取り出した。

「この巻物は、魔法使いの命といっても過言ではない。私が直々に授かった合言葉のすべてが、ここに記されているのだ」

「忘れないように?」

「いやいや、魔法使いは一度聞いた合言葉をけっして忘れはしない。たとえ何千、何万あったとしてもだ。書き留めるのは、言葉にはそれ自体に力が備わっているからで、その力が魔法使い自身の力量を決める」

 言うなり手さばきよく、巻物を床に広げた。部屋の端から端までいっても足りないほどの長さの紙が、まっすぐ伸びていく。

 晶太は、あの細い巻物に巻かれていたとは思えない紙の量に驚き、そして、その紙がまったくの白紙であることに驚いた。

 その驚愕を見て、師匠は嬉しそうに微笑んだ。

「大切な言葉の数々を魔法で守るのは、基本中の基本。本人にしか読めないよう、『見えずの墨』で書いてあるんだよ」

と、説明する。

「わかった! ぼくが毎日唱えているのは、その墨を作るための呪文だったんですね」

「その通り。さらに、この墨は、魔法使いが許可する相手には、こうして見せることもできる」

 鋭く発した呪文ひとつで、長い紙の一面に、無数の筆文字がくっきりと浮かびあがった。その迫力に晶太は拍手喝采した。

 師匠は称賛に応えて軽く会釈し、手首のひとひねりで紙を元通り巻き戻すと、再び懐にしまった。気をよくしたのか、続けざまに魔法を使って見せてくれる。

 

 習字用の筆を長机の真ん中に置くと、すばやく「ウタ」を唱える。

(筆の神様に、どんなことを頼んでいるんだろう)

 わくわくしながら見守るうち、筆はびっくりするような勢いで大きくなり始めた。大きくなりながら、微妙に形を変えていく。

 どことなく見覚えがある形……。

 

「あっ、魔法使いのほうきだ! これで空を飛ぶんですね?」

  期待に満ちて尋ねると、

「この毛筆は、タヌキの毛。化けるのは得意でも、飛ぶほうはからっきしダメだね」

と、師匠は答えた。

 

 

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紫色を好きになった理由

 

紫色が好きです。

黄緑も好きで、紫とは同率1位くらいでしょうか。

 

偶然なのか必然なのか、私が読者登録をさせていただいている方たちのうち、紫色好きを表明されているのは、ひとりやふたりではありません。

 Emily (id:Emily-Ryu)さん
 のぞみュー (id:nozomyu)さん
 雷理 (id:hentekomura)さん

『3人』いらっしゃいます。(無断でカウントごめんなさい……)

 

好きなものは、いつの間にか好きになっていたということが多いですが、紫色好きになった事の始まりは、半世紀以上前のエピソード記憶とはいえ、はっきりと覚えています。

 

少し前置きが長くなりますが──。

私は近所の保育園に入り、園庭でアヒルにつつかれたりしながらも、楽しく通っていました。

ところが、その時代にも保育園不足問題があったようで、小学校入学は1年以上先だったのですが、「母親が外で仕事をしていないから」ということで退園になりました。

しかし、捨てる神あれば拾う神あり。

入学を予定している小学校に新しく幼稚園が併設されることになり、今なら定員に余裕があるのでいかがですかと、園長先生が母に声をかけてくださったのです。

通りがかりに、洗濯物を干す母の足元で遊んでいる私(幼児)を見かけて、というのがきっかけでした。

 

幸運にも入園できた新しい幼稚園では、担任のT先生がとてもきれいで優しくて、憧れの的でした。

季節は流れ、あるとき幼稚園の教室でヒヤシンスを水栽培することになりました。園児全員に球根と水栽培用のポットが配られます。

   f:id:toikimi:20180723103347p:plain

 男の子はブルー、女の子はピンクのヒヤシンスポット。

ところが、多様性を目指したのか、それとも単に数が足りなかったのか、紫色とグリーンのポットも少しだけ混ざっていました。

経緯は覚えていませんが、その紫のポットが私のところにまわってきたのです。

 

(ほかの女の子はみんなピンクのポットもらったのに、どうしてtoikimiだけ……?)

まさに「がーん」とか「ズ~ン」という心境でした。

      f:id:toikimi:20180723114055p:plain

そのときです。

T先生がそばに来て、私と目線を合わせ、

「toikimiちゃん、むらさきはおしゃれな色なのよ」

と、おっしゃったのは──。

 

それ以来、大好きなT先生が「おしゃれな色」だと讃えた紫が、私の大好きな色になりました。

 

 

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「薔薇は薔薇であり、薔薇であり、薔薇である」

 

A rose is a rose is a rose is a rose.

薔薇は薔薇であり、薔薇であり、薔薇である。

アメリカ合衆国の詩人ガートルード・スタイン(1874.2.3~1946.7.27)の言葉です。

 

ゲシュタルト療法の創設者フレデリック・パールズの弟子で、1985年に来日し指導・実践を行った故ポーラ・バトム博士が好きだった詩だと聞きました。

 私がワークを受けたファシリテーターには、ポーラからゲシュタルト療法を学んだという方々がいて、

「ポーラがこう言っていた」

と、なつかしそうに話してくれるのです。

 

ゲシュタルト療法は、ゲシュタルト心理学をはじめとして、さまざまな哲学・心理学を取り入れていますが、そのなかのひとつが「現象学」です。

げんしょうがく【現象学

意識に直接的に与えられる現象を記述・分析するフッサールの哲学。現象そのものの本質に至るために、自然的態度では無反省に確信されている内界・外界の実在性を括弧に入れ(エポケー)、そこに残る純粋意識を志向性においてとらえた。

実存哲学などにも影響を与え、サルトルによるイマージュの現象学メルロ=ポンティによる知覚の現象学などが生まれた。

三省堂大辞林 第三版より抜粋)

 

ほとんど何を言っているのか理解できませんが、エポケー(判断中止、判断を留保すること)という態度は、ゲシュタルト療法に通じるように思います。

しかも「括弧に入れる」とは、面白い表現ですね。

ごく当たり前だと思い、疑うことのなかった価値判断を(括弧)のなかに入れ、ちょっと留保しておいて、今のありのままを記述する。

ゲシュタルト療法の「気づきのトレーニング」に似ています。

 

さて、冒頭の詩ですが、

「薔薇は薔薇である。薔薇の花が薔薇であり、薔薇のとげが薔薇である。薔薇の根が薔薇であるように、それ以外に薔薇の本質は存在しない」

と、解釈することができます。

物事の本質はどこか見えないところにあるわけでなく、現実に現れている薔薇そのものが本質なのである。

人の存在も同じである。あなたがどこかにすばらしい本質を隠し持っているわけではなく、あなたの存在があなたであり、あなたの本質なのだ。

(ポーラ・バトム) 

 

「禅」的になってきました。使いこなすには相当の修行が必要な感じです。

 

過去の失敗や後悔に引きずられたり、あるいは、認めたくないような痛い感情が湧きあがってきたりするとき、無かったことにしようと無駄な労力を費やすよりも、

「ローズ・イズ・ローズ・イズ・ローズ・イズ・ローズ(深い根っこも私、鋭いとげも私)」

と唱えて、受け入れる場を心のなかに作ってみる。

それは、なかなか有効な手段ではないかと思います。

 

 

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