かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

ヒーローの任命式(創作掌編)

 

 和弘にとって美里市民会館は、歴史的建造物と呼びたいくらい特別だ。

 祖父も、父も、ここで結婚式を挙げた。

 そして今日、市民会館の大ホールで、忘れかけていた子供の頃の夢が叶い、和弘はヒーローに任命されるのだ。

 

『ミサト・ガーディアン』は、50年近く活動を続けている、地元密着型の変身ヒーローだった。

 巨悪と闘うわけではない。ただ、必要とされる場所に現れ、必要とされる役割を誠実に果たしていく。言葉は口にせず、常に行動で示した。

 一日警察署長に消防署長、地域イベントのゲスト出場、学校や病院、福祉施設への訪問、ローカルテレビにも定期的に出演している。

 そして、ひとたび災害が起これば、そこには必ず支援物資を届け、被災住民を見守るミサト・ガーディアンの姿があった。

 

 たぶん、和弘はクラスで一番さいごまで、

「しょうらいの夢は、ミサト・ガーディアンになることです」

 と、文集に載せていた子供だった。

 

 地元企業に就職して2年目の春、突然、重役室に呼ばれた。

 首をかしげながら行ってみると、入社式で顔を見たことがうっすら記憶に残っている会長のとなりに、ヒーローのスカウトが座っていたのだった。 

 ミサト・ガーディアンになる期間は2年、ふたり1組で交替し、協力しながら役目をはたしていく。1年目は先輩ヒーローについて学び、2年目はメインをつとめながら後継者を指導する。

 他言無用、契約上の守秘義務がある内密の任務だ。 

 大喜びで引き受けると、会社からは、2年間の社外研修を命じる辞令が下りた。

 

 任命式の会場に、だんだんとゲストが集まってくる。年齢はまちまちだが、何となく背格好が似ていた。どの人も背筋が伸び、目が輝いている。

「お疲れさん。調子はどう?」

 これから1年間、チームを組んでいく先輩ヒーローが、笑顔で和弘の肩をたたいた。

「なんだか緊張して、ドキドキしています」

「任命式といっても、そんなに堅苦しいものじゃないよ。同窓会の余興みたいな感じさ。大丈夫、ガーディアンズはみんな、いい人たちばかりだから」

 先輩の言葉に、少し肩の力を抜いて、和弘はうなずいた。

(OBは、ガーディアンズと呼ばれているのか)

 何十年ものあいだ、市民の心の安定を守り続けているミサト・ガーディアンは、ひそかにバトンを繋いだ人たちに支えられてきた存在だったのだ。

 

 ホールの一隅には、歴代のヒーロー・コスチュームが展示されていた。

 ずっと変わっていないと思っていたけれど、こうして並ぶと、絶えず小さな改良を重ねてきたことがわかる。

「今のガーディアン・スーツはスマートでいいね。昔は重くて変形しやすく、思うままに動くことが難しかったものだが……」

 

 和弘が飛び上がるほど驚いたのは、ふいに話しかけられたせいではない。

 よく知っている声だったからだ。 

「お祖父ちゃん!」

 叫ぶように呼びかけると、ダークスーツを折り目正しく着こなした祖父が、誇らしい眼差しで和弘を見つめていた。

 

マスカレード(創作掌編)

 

 僕は無個性な社会人だが、仮面の制作という少し変わった趣味を持っている。

ベネチアンマスク」と呼ばれる、中世ヨーロッパの仮面舞踏会やカーニバルで使われていた、顔の上半分を覆うハーフマスクを作るのが好きなのだ。

 

 あるとき、完成した作品を並べてみて、4つのテーマ別で分類できることに気がついた。

 怒り・悲しみ・笑い・愛

(なるほど、こういうものを表現したかったのか……)

 それからは、テーマを意識して制作することを心掛けた。

 

 独学で工夫を重ね、自信作と言えるような作品が少しずつ増えてくると、その仮面たちが、本来の役割を果たすところを見たい、と思うようになった。

 はっきりした目当てもないまま、広大なネット空間をさまよい、ついに見つけたのが『マスカレード』という舞踏集団だ。ウェブサイトのトップページには、仮面風のステージメイクを施したダンサーたちの画像、そして──、

 素顔で語るとき、人は最も本音から遠ざかるが、仮面を与えれば真実を語り出す。

 という、オスカー・ワイルドの言葉が添えられていた。

 

 その夜のうちに、彼らのダンスパフォーマンス動画を見尽くした僕は、ウェブページのメールフォームからコンタクトをとった。二の足を踏んで怖気づく前に、大急ぎで自己紹介文を書き、仮面の画像を添付して送信したのだ。

 すると、翌日には折り返し連絡があり、順調に話が進んで、面会の約束ができてしまった。

 

 待ち合わせ場所は、街なかの広々としたカフェだった。行ってみると、聞いていた目印を探すまでもなく、すぐに彼らを見つけられた。

 ことさらに人目を引く格好をしていたわけではないけれど、演出と振り付けを担当しているという2人は、表現者らしい空気感を全身にまとっていたし、マネジメントを引き受けている女性は、穏やかな物腰ながら、眼の光に切っ先のようなきらめきがあった。

 

 僕は気後れしながらも勇気をふるって挨拶し、持参した仮面を披露した。

 思いのほか好評だったので、ひとまず安堵する。

 作品を前にした演出担当の2人の口から、次から次へと掛け合いのように、アイデアがあふれ出てきた。

「メイクと違って素早く付け替えることができるから、4部構成で行けそうですね。『怒り』、これは稲妻のように、瞬発的で目がくらむほど、烈しく動きましょう」

「『悲しみ』はバリエーション豊かに、『笑い』はふざけすぎるくらいがちょうどいい」

「で、『愛』はどうしましょうか?」

「それはもう、大団円の舞踏会。ワルツにラテン……」

 彼らは即座に、振り付けメモらしきものを書き始めた。極度に簡素化した人体が、紙の上で踊り出す。まるでダンスの速記だ。

 

 息を飲んで見守っていた僕は、ふと視線を感じた。目を向けると、マネジメントの女性が、笑いをこらえるような表情を浮かべていた。

「ふたりとも少し落ち着いて。まだ作家さんと契約のお話もしていないんですよ」

 と、たしなめる。

 思わず胸が高鳴った。僕のことを「仮面制作の作家」と認めてくれたのだ。

 彼女が笑顔で、言葉を続ける。

「──というそばから、私もひとつ提案があるの。舞踏会のフィナーレで、いっせいに仮面を脱ぎ捨てるのはどうかしら?」

 

 2人はそろって彼女を見つめた。

「それはたしかに、インパクトのある演出ですけれど……」

「仮面を破損するおそれがあるんじゃないかな。脱いだあと、目立たないように持っている、というならともかく」

 僕の作品を気づかっての発言だったが、彼女は首をかしげた。

「後ろ手に隠したりするなら、いっそ何もしないほうがいいわ。愛とは、臆面もなく素顔を晒すもの。仮面をかなぐり捨てるくらいじゃないと、その意図は伝わらないと思うの。でも、あなたたちの言うことは正しい。作品を破損するような演出は避けるべきね」

 

「いえ、素晴らしい演出だと思います。脱ぎ捨てるどころか、床にたたきつけたってかまわない!」

 われ知らず、僕は大きな声で主張していた。

 彼女が、実際家の顔に戻って答える。

「ありがとうございます。ですが、考えてみればやはり無理がありました。このやり方では、舞台をひとつ終えるたびに、『愛』の仮面が足りなくなってしまいますものね」

 

「それなら、僕はこれから『愛』だけを作ります」

(あなたのために……)

 いつもの臆病さも忘れ、僕は彼女に向かい、熱意もあらわに申し出た。

 

 

ダーウィンとミミズ

 

ダーウィン(1809年~1882年)は22歳のとき、イギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船し、世界一周をしました。5年にわたる航海中に行った自然観察と調査、標本の採集から、生物は進化するという説「進化論」が生まれたのです。

 

帰国後は原因不明の体調不良に悩まされ、公職に就くことなく、ロンドン南東25キロのダウン村の自宅に、いわば引きこもって暮らしました。

ダウン・ハウスと呼ばれる邸宅で、きわめて規則正しい生活を送りながら『種の起源』(1859年)を著したのですが、その一方で、庭の植物など身近な生物を詳細に観察し、仮説を立て、実験を繰り返すという、生物学の研究を続けました。

なかでもミミズの観察と研究は、40年以上に及ぶものでした。

 

ダーウィンのミミズの研究 (たくさんのふしぎ傑作集)

ダーウィンのミミズの研究 (たくさんのふしぎ傑作集)

 

 

ダーウィンのミミズの研究』(福音館書店)は、杉田比呂美さんの絵が何ともいえずユーモラスであたたかい、「かがく絵本・図鑑」です。

著者の新妻昭夫さんは動物学者で、ふと見つけた「ダーウィンのミミズの本」に興味を引かれます。正式なタイトルは『ミミズの作用による肥沃土の形成とミミズの習性の観察』(1881年)という、ダーウィンが最後に書いた本でした。

 

ダーウィンは1837年、28歳のときミミズの研究を始めます。

そのきっかけは、ウェッジウッドの叔父ジョサイア2世の、

「牧草地はミミズが作った」という一言でした。

(ちなみに、ジョサイア2世は、有名なイギリスの陶磁器メーカー「ウェッジウッド社」の経営者です)

平らで草が青々と生えている牧草地も、かつてはでこぼこで石ころだらけ、土もざらざらでした。それがいつのまにか、細かくしっとりとした土になっているのは、ミミズが土を食べて土のフンをする、そのためではないか。

ダーウィンとジョサイア2世は、10年ほど前に土を良くするため石灰をまいたという牧草地を掘ってみます。すると、地表から7.5センチくらいのところで白い石灰が出てきました。

地面にまかれた石灰の上にミミズがフンをして、10年で7.5センチも埋めてしまったわけです。

この発見を、ダーウィンはロンドンの地質学会で発表しますが、

「そもそもミミズみたいなちっぽけな動物に、そんなすごいことができるわけがない!」

との反対意見も出されました。

 

その後、結婚して移り住んだダウン・ハウスで、ダーウィンは本格的なミミズの研究に取りかかります。

家の裏庭に続く牧草地の一角に、白亜の破片をばらまき、毎日観察を続けました。

そして29年後、62歳になっていたダーウィンは、牧草地を掘り、地表から深さ17.5センチのところに白亜の筋を発見するのです。

「たいらな土地では、ミミズが石を埋める速度は1年あたり6ミリ前後」

と、ダーウィンは結論を出しました。

 

 進化論をはじめてとなえた学者として有名なダーウィンが、いっぽうではミミズというちっぽけな生きものを40年もかけて観察し、実験をくりかえしていた! ミミズなんてめずらしい動物ではない。だれでも知っているけど、だれも注目しない動物だ。そんなミミズが地球の表面をたがやしているのもおどろきだが、それを証明するために生涯をささげた人がいたということにわたしは感激してしまった。 

 

「感激してしまった」著者の新妻さんは、もし1年に6ミリなら、150年後の今、牧草地にまいた白亜の破片は、1メートル近い深さまで沈んでいるのではないかと考え始めます。

その予想をどうしても確かめたくなり、ロンドン在住の友人に依頼して、ついに、ダウン・ハウスの庭を掘る許可を得ました。

ところが、実際に掘ってみると……。

 

なぜ予想とちがうのだろう?

 〈中略〉

もっともっと、掘ってみたい。

もっともっと、しらべてみたい。

 

生まれた時代も国も違うふたりの科学者が、「もっとしらべたい!」という探究心で通じ合っていることを感じました。

 

ミミズの凱旋(掌編創作)~銀ひげ師匠の魔法帖⑧~

 

 魔法使いの銀ひげ師匠は、書道教室の先生でもあるので、 ときには、額装や掛け軸にするための「書」も頼まれる。

 4年前の書道作品を持って訪ねてきたのは、真新しいスーツ姿の、小網さんという人で、お祖母さんからの贈り物だったそうだ。

 挨拶が済み、小網さんがカバンから色紙サイズの額を取り出す。師匠のななめ後ろに座った晶太は、伸びあがるようにして見つめた。

『必勝』

 という二文字が書かれている。大きくて力強い字だけれど、あまりプレッシャーを感じさせないところが銀ひげさんらしい。

 

「僕が受験生だったとき、祖母はこちらの教室の生徒ではなかったのに、先生に無理を言ってお願いして書いていただいた、と聞いています。お陰様で、志望校に合格することができました。この4月から社会人になります」

 と言って、深々と頭を下げた。

「それはなにより。お祖母様は確か──、出来ることなら自分で書きたいのだけれど、毛筆はほんとうに苦手だからと、おっしゃっていましたね」

「はい、ミミズののたくったような字だと、いつも嘆いています。それなので、父や叔母は小さい頃から、書道塾へ通っていたそうです」

 

「ミミズねえ。ところで、この『必勝』には秘密があるのを、あなたはご存知かな?」

 思いがけない言葉に、小網さんが目をみはる。

 晶太は、どこかに魔法がかかっているのかと思い、確かめようと見直した。

「額縁にかくれて見えないが、こうやってはずすと……」

 師匠が留め具をずらして、額から書道紙を取り出す。

 「あっ!」

 小網さんと同時に、晶太も声をあげた。

 

 書道紙の4つの辺を縁取るように、細かい筆文字が並んでいたのだ。

 すべて平仮名で、

  だいじょうぶ だいじょうぶ だいじょうぶ
  だいじょうぶ だいじょうぶ だいじょうぶ……

 と、書き連ねてある。

 (ほんとだ、ミミズが踊ってるみたい)

 晶太は心のなかで、こっそりつぶやいた。

 

「お祖母様が、一文字一文字、真心をこめて書いていらっしゃった姿を、はっきりと覚えていますよ」

「そうだったんですか……」

 何度もまばたきしながら書に見入っていた小網さんは、姿勢を正すと、銀ひげ師匠のほうへ向き直った。

「今日は、お願いがあってきました。今度は僕のほうから、祖母に贈りたい言葉があるんです。それを書いていただけないでしょうか?」

 

 リクエストは『感謝』という二文字。

 銀ひげさんは快く引き受けた。

 まず、小網さんに一意専心で墨をすってもらい、それから、細い筆を渡す。

  ありがとう ありがとう ありがとう
  ありがとう ありがとう ありがとう……

 書道紙の縁に沿って書き続ける横顔は、真剣そのものだった。

 

『ありがとう』の文字が乾いてから、銀ひげ師匠が『感謝』を書き、額装して翌日渡す、ということになった。

 何度もお礼を言って帰っていく小網さんを見送ったあとで、

「師匠、書くときに何か魔法を使いますか?」

 と、晶太は尋ねた。

「いいや、一生懸命すった墨と、心をこめて書いた文字には、もう充分魔法が宿っているからねえ。あまり余計なことをしないで全体をまとめるのが、私の役目さ」

 言いながら、じみじみとしたまなざしで、小網さんの『ありがとう』を見つめる。

 

「……隔世遺伝のミミズだな」

「そうですね、踊ってますね」

 同じ土から生まれたことが一目でわかる、元気で心優しいミミズに見えた。

 

 

金魚の想い(創作掌編)

 

「コイじゃないのか?」

「違います、コイじゃありません」

 昼休憩から戻ってきた男性社員2人が、声高にしゃべっている。となりの部署の課長と、その部下の江戸川さんだ。

(恋?)

 優海は思わず、耳をそばだてた。

「でも、あの大きさはどう見てもコイ、紅白のニシキゴイだよ」

「いいえ、金魚だそうです。お店の人から聞きました」

 

 今度は別の意味で興味がわいてくる。

 優海の祖父は、金魚の研究と飼育が趣味で、30センチ以上に育てた金魚も多かった。子供の頃、夏休みに泊りがけで遊びに行ったとき、いっしょに金魚の世話をしたことをなつかしく思い出す。 

「そんなに大きな金魚なんですか?」

 会話に入っていくと、

「このあいだ測らせてもらったら、34.5センチメートルありました」

 江戸川さんが誇らしげに答えた。祖父と同じで、かなりの金魚好きなのだろう。

 聞けば、その金魚がいるのは、会社にほど近いお蕎麦屋さんだそうだ。好奇心にかられた優海は、翌日のお昼に連れて行ってもらうことにした。

 

「すみません。ランチが昨日と同じところになってしまいますね」

 店に向かいながら謝ると、江戸川さんは笑顔で答えた。

「僕なら大丈夫です。ほぼ毎日、あの店に通っていますから」

 昔ながらのお蕎麦屋さんの、それほど広くはない店内の壁ぎわに、大きな水槽が置かれていた。金魚は紅白更紗模様の和金だ。

  江戸川さんは常連客の親しさでお店の人に挨拶してから、水槽のすぐそばのテーブルについた。すかさず寄ってくる金魚とガラス越しに見つめ合う。

「ほんとに、大きくて、きれいな金魚ですね」

 と言うと、自分のことを褒められたみたいに顔をほころばせた。

 

  食事しながら、祖父から聞いた金魚の飼育にまつわる話などをしているとき、優海はふと、強い視線を感じて振り返った。

 そして、水槽の中から、じっとこちらを見ている金魚と目が合い、ドキリとしたのだった。

 

 それ以来、何かおかしい。

 江戸川さんのことを、妙に意識するようになったのだ。

 気がつくと、姿を目で追っている。今までは、同僚として普通に見ていた彼が、やわらかなもやに包まれたように見えてしまう。

「恋愛フィルター」という現象を聞いたことはあるけれど、まさか、これがそうなのだろうか?

 優海は首をかしげた。

 もやでも、フィルターでもないと気づいたのは、しばらく経ってからのことだ。

(そうだ、あれはまるで、水槽のガラス越しに見えている姿のよう……)

 と思った瞬間、頭のなかに、あの大きな金魚の視線を感じて、背筋が凍りついた。

 

 半泣きで祖父に電話すると、その日のうちに駆けつけてくれた。

「金魚は、人に対する気持ちがとても強いんだよ。もともとフナの突然変異種だった魚で、人為的な品種改良を繰り返して進化させてきた観賞魚だから、人間との関係が深い。とはいっても、優海の心を乗っ取ろうとするなんて、絶対に許されないことだ」

 と、温和な顔を厳しく引き締める。

 昔話の『魚女房』は、若者に助けられた魚が、娘に変身して恩返しするストーリーになっているが、実はあれも、変身したのではなく、自分が選んだ娘に乗り移って、恋しい若者のところへ嫁いだのだ、という説もあるらしい。

 

「その蕎麦屋の金魚だって、想いを遂げたい一心でやっているのだろうが、何としても諦めてもらわないとな。私も金魚と共に半世紀以上生きてきただけに、顔を合わせれば、気持ちを通じさせる自信はある。優海にもいっしょに来てもらうことになるから、これを身につけておくといい」

 そう言って、白鷺神社のお守りを優海に持たせた。

 金魚の祖先であるフナなどの淡水魚にとって、白鷺は天敵のひとつだ。「金魚除け」の効果は高いという。

 

  優海は覚悟を決めて、祖父とお蕎麦屋さんへ向った。

 土曜日の午後3時、店は営業していたが、なかへ入る前に、思いがけないものを見つけて立ち止まる。

 水を抜かれて空になった水槽が、店の前に置いてあったのだ。

「お祖父ちゃん、あの金魚はどこへ行ったのかしら……」

 息をのんで、祖父を見上げた。

 

 ちょうどそのとき、店の扉が開き、水色のユニフォームを着た人が、大きな発砲スチロールボックスを2人がかりで運びながら出てきた。その後ろに続いているのは、驚いたことに、江戸川さんだ。

「江戸川さん」

 呼びかけながら走り寄ると、江戸川さんは目をまるくして優海を見た。

「金魚の水槽が空になっていますが、どうしたんですか?」

「あ、実は、こちらのお店から、金魚を譲ってもらえることになったんですよ。専門の運搬業者に頼んで、これから僕の家まで運ぶところです」

 答える顔が、喜びに輝いている。

 江戸川さんは挨拶もそこそこに、発砲スチロールボックスの後を追っていった。なかには、あの金魚が入っているのだろう。

 

 走る去る運搬車を見送りながら、優海は祖父に報告した。

「さっき、江戸川さんのことは元どおり普通に見えたし、頭のなかの視線も、今はもう感じない」

「それは良かった!」

「空騒ぎだったね。せっかく来てくれたのに、ごめんなさい」

 すると、祖父は目を細めて笑った。

「おまえの顔を見られただけで嬉しいよ。しかも、金魚の研究家として、貴重な事例を目にすることもできた。今はふたりの、いや、一人と一匹の幸せを願うばかりだ」

 祖父の言葉に、優海は深くうなずいた。

 

 

ウチガミさま(創作掌編)~ハヤさんの昔語り#2-5~

 

 ハヤさんの珈琲店では、2月限定のホットチョコレートが、隠れた人気メニューになっている。

「ちょっとした贅沢を味わえる」

 と、普段はブラックコーヒー派のお得意様に大好評なのだ。

 

 ホットチョコレートは、駅前の洋菓子店でパティシエをしている妹さんから伝授されたレシピで作っていて、材料費と手間を考えると、コーヒーより割高ながらも、かなりのサービス価格らしい。

「喜んでもらえればそれでいいんです。特に男性はなかなか、自分へのご褒美として、高級なバレンタインチョコレートを買うなんて出来ませんからね」

 ハヤさんは優しい目で言う。

 

(バレンタインチョコ、女性からもらえばいいのでは?)

 などと受け返せる雰囲気ではないので、私は静かにホットチョコレートを味わいながら、ハヤさんが前世で寸一という行者だったときの話を聞くことにする。

 

   △ ▲ △ ▲ △

 

 笹木家は古くから続く家柄であったが、跡継ぎが絶え、やむを得ず家をたたむことになった。

 さいごの当主となった高齢の女あるじは、親しい縁者の元へ身を寄せるという。土地を離れる前に、寸一が寄宿している寺を訪ねて来て、ウチガミさまを託していった。

 

 ウチガミさまとは、旧家に多く祀られている、家の神のことだ。

 大抵は男女一対の木彫りの人形をご神体としているが、寸一に預けられたのは、独り神であった。

「お伺いを立てましたところ、この土地に残ると答えられたので、当地の分家筋に声をかけておきました」

 と、しっかり者の女あるじは言う。

 家の神としてお迎えしたいと申し出る者があれば、ウチガミさまのご意向を確かめた上で、渡すように頼まれた。

 

 気難しいウチガミさまの話はよく耳にするが、笹木家の独り神から感じ取れるのは、子供のような無邪気さであった。

 半月ほどして、

「ぜひ、我が家へ」と願い出たのは、弥次郎という若い男だ。

 しきりに「商売繁盛」や「ご利益」を口にする弥次郎であったけれども、寸一が伺いを立てると、ウチガミさまは屈託なく、共に行くことに同意したのだった。

 

 

 ところが、一年も経たぬうちに、ウチガミさまは戻されることになる。

 女房と連れ立ってやってきた弥次郎を見て、寸一は驚いた。

 ずいぶんと面変わりしていたのだ。鋭かった目付きは柔和になり、心底満ち足りたように微笑んでいる。

「前に、こちらのお寺で『足るを知る』という講話を聞きました。そのときは、あまり気に留めていませんでしたが、今ならよくわかります。思えば昔は、いつも急き立てられているようで、あくせくするばかり、心が休まるということがなかった」

 

 一方、赤ん坊を背負った女房は困り顔だった。

「こんなにも、欲というものが抜け落ちてしまったのでは、商売になりません。働けば働くほど、立ち行かなくなるのです」

 うつむいて声をひそめ、

「これではまるで……、貧乏神を迎えたようだ」と呟く。

「お前、なんと罰当たりなことを」

 うろたえた弥次郎がたしなめると、女房に加勢するかのように、赤ん坊が泣き出した。

 

 当分のあいだ、笹木家のウチガミさまは、寸一の居室に安置されることになった。

 弥次郎の商売も、その後なんとか持ち直したようだ。

 それでも時折、ウチガミさまが恋しくなるのか、女房に内緒でやって来る。

 しばらくそばに居れば気が晴れるらしく、寸一に礼を言うと、清々としたようすで帰っていくのだった。

 

   △ ▲ △ ▲ △

 

 聞き終わって、少しだけ気になる点があった。

「結局、そのウチガミさまは、ずっと寸一のところで預かっていたの?」

「そうです。弥次郎のことが噂になってしまったのか、ほかの分家筋の人たちからも、家の神として迎えたいという話は出ませんでした」

 

「ひょっとして、そのままハヤさんが引き継いで持っていたりしないよね?」 

 恐る恐る尋ねた。

「いいえ、僕が受け継いだのは、昔語りの記憶だけですよ」

 ハヤさんの答えに、私はひと安心したのだった。

 

 

オリジナルマジック(創作掌編)

 

 クロースアップマジックと出合ったことは、人生最大の驚きと喜びだった。

 至近距離で繰り広げられる、カードやコイン、ロープ、リングのテーブルマジックに魅了され、そのマジシャンがオーナーをしているマジックショップに通いつめたものだ。

 そして、幸運にも、私はプロのマジシャンになることができた。

 

 三十数年が経ち、今度は私のほうが、マジックバーにやってくる初心者たちの質問に答えている。

 なかでも特に熱心なのは、西山君という学生だ。

 その繊細で美しい手からは想像もつかないほど不器用で、技術を身につけるためには、人一倍の努力が必須となるだろうが、なんといっても彼にはひたむきな情熱があった。

 ただ単純に「好きだ」と思える気持ちは最強であり、労苦すら楽しみに変えてしまう。

 私は時間の許すかぎり、彼の練習に付き合い、成長を見守っていた。

 

「必要な技術を習得するまで、たとえ十年でも二十年でも、先生に付いていきます」

 と、西山君は真顔で言う。

 私にとって彼は弟子というより、スタートの時期が違うだけの仲間であって、同じ道を歩み、高みを目指す同志なのだ。「先生」と呼ばれることは不本意だったが、こればかりは何度言っても聞き入れてもらえなかった。

 

 時間は充分にあると思っていた。

 西山君は、いずれ郷里へ帰って家業を継ぐことが決まっていたものの、それはまだずっと先の話だったからだ。

 しかし、人生は何が起こるかわからない。

 毎日のように通ってきていた西山君が、数日間姿を見せず、めずらしいことだと思っていたところに、突然、電話がかかってきた。

「先生、父が狭心症で緊急手術を受けました。手術は無事成功して、経過も順調ですが、今まで通り仕事を続けるのは難しそうです」

 落ち着いて説明する声に、失望が隠れていた。

 

 

 ひと月ほど経ったある日、西山君が別れの挨拶にやってきた。

 大学を中退し、帰郷する決意をしたという。

「さいごに、僕のマジックを見てください」

 少しこわばった笑顔で言った。

 

 新しいトランプの封を切り、まず2枚のジョーカーを抜き出して、脇へ置く。

 残りのカードをシャッフルしてから、伏せたままテーブルの上に、弧状のリボンスプレッドで広げた。

「1枚、選んでください。そして、そのカードにサインをしてください」

 私が引いたのは、ハートの5。

 サインペンで大きく名前を書いてから、元に戻す。

 西山君は、再びカードを切り混ぜたあと、初めに取り出しておいた2枚のジョーカーを表向きのまま、いちばん上と下にセットした。

 片手でカードの束を持ち、ひと振りすると、ほとんどのカードが、軽やかな音をたててテーブルの上に振り落とされる。

  ジョーカー2枚に挟まれて、ただ1枚残ったカード、それは、私が先ほどサインしたハートの5だった。

 

 有名なサンドイッチ・カードというマジックの、シンプルなバージョンだ。

 けれど、西山君は独自のバリエーションを加えていた。

「どうぞお確かめください。先生が選んだカードに間違いありませんね?」 

 と促されて手にしたハートの5には、小さなメッセージカードが貼りついていたのだ。

これまでほんとうに

ありがとうございます

先生と出会えたこと

それは僕にとって

最高のマジックです 

 メッセージのひと文字ひと文字から、真情が伝わってきて、涙を禁じえなかった。

 

「そのサインカード、記念にいただいてもいいですか?」

 私はうなずき、メッセージを丁寧にはがしてから、ハートの5を渡した。

 悲しみをこらえるようにうつむいて、受け取ったカードに視線を落とした彼の目が、大きく見開かれる。

 そこに書いてあるのは──、

「Be natural, Be yourself」

(自然であれ、君自身であれ)

偉大なマジシャン、ダイ・バーノン氏の言葉だ。

西山君

私はいつでも、君の幸福と健闘を祈っている。

 

「いつのまに……?」

 つぶやく西山君の頬に、ゆっくりと赤みがさし、口元には笑みが浮かんだ。

 

 マジックは、驚きと喜びをもたらすのだ。