20年前のこと。当時働いていたオフィスで、園芸好きの社員が空き瓶を利用した水栽培を始めました。
社内に置いてある観葉植物の、伸びた茎や小枝をカットして、水につけておくと根が生えてきます。
「いずれ持ち帰って、鉢に植え替える」と言っていたのですが、そのままにして退職。
残された植物は2種類で、1つはポトス、もう1つは不明でしたが、多分ユッカだと思われます。世話をする人がいなくなってしまったので、しかたなく水換えなどしていました。
やがて、そのオフィスから移転することになったため、水栽培は自宅へ持ち帰りました。
それぞれ鉢に移して面倒を見ていましたが、残念ながらポトスの方は枯れてしまい、うちの植物はユッカ(推定)だけになりました。
呼称「ウチノキ」
週に1回程度、水遣りして、葉についたホコリをぬぐうくらいしかしていませんが、定期的に新しい葉を生やし、無事に育っています。
去年の2月に引っ越したときは、部屋の片付けが一段落するまでという約束で、ウチノキを姉に託しました。ところが、引っ越しの疲れが出たのか、首を痛めて通院することになったため、引き取ってきたのは数ヶ月後でした。
連れ帰ったウチノキの葉は、ずいぶん色があせてしおれかかっていました。
姉の話では、きちんと水遣りして、日にも当てていたのに、少しずつ弱っていったそうです。
「寿命かな?」と思いながらしばらく様子を見ていると、ウチノキはみるみる元気になってきました。
おそらく、水をあげるタイミングがこまめ過ぎたのでしょう。「土の表面がカラカラに乾いたら与える」というのが、観葉植物の正しい水遣りらしいのですが、私はいつも適当にやっていたので、適当にしか伝えていませんでした。
と、原因はわかっても「情」は別もので、ウチノキに対する愛着が一気に強まりました。
20年も一緒に暮らしてきたのだから、何か絆のようなものが形成されているのでは?
そういう疑問に答えてくれる本がありました。
『植物はそこまで知っている』~感覚に満ちた世界に生きる植物たち~(河出書房新社)
ダニエル・チャモヴィッツ 著
矢野真千子 訳
著者のダニエル・チャモヴィッツ氏は、コロンビア大学を卒業後、エルサレム・ヘブライ大学で遺伝学の博士号を取得しており、テルアヴィヴ大学教授、および同大学マンナ植物バイオ科学センターの所長という、最先端の科学者です。
1990年代、イェール大学で博士過程終了後の特別研究員をしていたころ、周囲に光があるかないかを植物自身が判断するのに必要な遺伝子群を発見し、それらが植物だけでなくヒトにも存在しており、同様の役割を果たしていることを知りました。
「植物と動物の遺伝子は、それほど違わないのではないか」と気づいたチャモヴィッツ氏は、植物とヒトの生物学上の類似性を追究するようになりました。
厳密に言えば、植物は「知っている」という私の言葉の使い方は正しくない。植物には中枢神経系、つまり体全体の情報を調整している「脳」は存在しないからだ。
そもそも植物とヒトのふるまいを同等に扱うことはできない。植物が「見る」あるいは「匂いを嗅ぐ」と書いたからといって、それはかならずしも植物に目や鼻(あるいは感覚器から得られる入力情報を感情に結びつける脳)があるという意味にはならない。
(プロローグ)
読み始めてすぐ、ウチノキと私とのあいだの感情は、一方通行であることがわかりました。
植物は「植物にとって可視的な環境」をいつもモニタリングしている。植物は、あなたが近づいてくるのを知っている。あなたがそばに立って、見下ろしているのを知っている。青いシャツを着ているか、赤いシャツを着ているのかも知っている。
もちろん植物は、あなたや私が見ているのと同じ光景を「見て」いるわけではない。〈中略〉それでもさまざまな方法で光を見ているし、私たち人間には見えない色まで見ている。
(1章 植物は見ている)
人間には、明暗を知るロドプシンと、赤・青・緑の光を受け取るフォトプシン、そして体内時計を調節しているクリプトクロムという光受容体があることがわかっていますが、植物のシロイヌナズナには、現在、少なくとも11の光受容体の存在が確認されているといいます。
植物は動物と違い、より良い環境を選んで移動することができない分、変化する状況に合わせて生長するため、高度な感覚機能と調整機能を進化させてきたのです。
果実は熟すとき、大量のエチレンガスを発生します。すると、そのエチレンの「匂いを嗅ぎ」、周囲の果実も連鎖反応を起こして、さらに早く熟していきます。
それは、同じ場所に生っている実がいっせいに熟したほうが、動物や鳥類を呼び寄せやすく、種子の拡散を確実するための戦略なのです。
(2章 植物は匂いを嗅いでいる)
植物は、触られることで反応する「TCH遺伝子」(touchから命名された)を持っており、接触や風雨などの物理的な刺激にリアクションします。
人に葉をさわられるなどの接触は、植物にとって警戒すべきストレスであり、もし、ひんぱんに繰り返されるようなら、その部分の生長を抑えて防御し、ときには枯れさせて切り離すことで、全体が生き延びる可能性を高めるのです。
「接触が引き起こす生長阻害」は植物全般に見られる現象だと認められています。
(3章 植物は接触を感じている)
植物に音楽を聴かせることで生長を促すという説がありますが、厳密に科学的なコントロールを施した実験では、音楽が影響を与えるという結果は出ていません。
今のところ、植物は進化の過程で聴覚を獲得する必要がなかった、と考えられていますが、もしかすると、受粉におけるハチの羽音のような、高周波の振動に反応しているのではないか、という仮説が立てられているそうです。
(4章 植物は聞いている)
人間が「耳石」によって平衡感覚を維持しているように、植物にも重力の方向を感知する「平衡石」が存在しています。土のなかの種が、芽を上に根を下に伸ばすよう、姿勢を変えることができるのは「平衡石」の働きによるものです。
(5章 植物は位置を感じている)
紫外線や病原体による攻撃などが植物にストレスを与えると、その個体のゲノムに変更が生じて、DNAの新しい組み合わせが出現します。
どんな生き物もそうですが、植物もストレスを生き延びる方法を探さなければならず、その方法の一つが、新しい遺伝子のバリエーションをつくり出すことなのです。
さらには、ストレスを受けてDNAの新しい組み合わせをつくり出しただけでなく、その子孫の植物が、直接そのストレスを受けていないにもかかわらず、同じDNAの組み合わせをつくっているといいます。
2006年、スイスのバーゼルにあるバーバラ・ホーンの研究室は、こうした「世代間継承記憶」の初の証拠を提示しました。
(6章 植物は憶えている)
いまでこそ、バラとヒトはどこからどう見ても違う生き物だが、一部に同じ遺伝子を保持し続けている。〈中略〉
たとえ遺伝的に共通する過去があったとしても、分岐してからの長大な年月をかけた進化を無視していいことにはならない。植物とヒトは共に、外的現実を感じ、知る能力を持っている。だが、それぞれの進化の道筋は、ヒトにしかない能力を与えてきた。植物にはない能力、それは知能を超えた「思いやる」という心だ。
(エピローグ)
ウチノキの記事を書くにあたり、この本を選んだのですが、読んでみたら飛び抜けて興味深い内容でした。
エピローグを締めくくる次の一文が、深く心に残りました。
「木はあなたという個人を憶えておくことはできないけれども、あなたのほうは、その特別な木のことを、これからもずっと憶えていられる。」