かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

砂のウサギ(創作掌編)

 千早さんのところに、なつかしい人が訪ねてきた。20年ほど前、マンションの同じ階に住んでいた牧野家の長男、マコト君だ。

 

 彼の母親が病気で長期入院することになったとき、千早さんは隣人として、子守役を買って出た。人見知りだったマコト君が心を開いてくれるには、少し時間がかかったけれど、後になってみればいい思い出だった。

 退院した母親の転地療養のため、牧野さん一家は引っ越していった。

 それ以来の再会だ。

 

「ほんとに立派になって。外ですれちがってもわからないわね」

「そんなことありません」

 はにかんだ笑顔に、小学生のころの面影が重なった。

「もう社会人よね。お仕事は何をしているの?」

「月光の浄化作用について研究しています」

「え?」

 千早さんは聞き返した。

「月の光には、ものを清らかにする力があります。そのはたらきについて研究しているんですよ」

「まぁ、神秘的ね」

 目をみはると、マコト君は照れたようにほほえんだ。

 

「すでに実用化の段階に入っています。たとえば、月光を溜めて、主に鉱物への浄化力を増大させる布。この布をかぶせておけば、小石や砂を清浄化することができるんです」

 そう言って、大きなカバンから30cm四方くらいの布を取り出した。色はブルーブラックで、厚みと光沢がある。

「夜の間に、砂場の砂をきれいにするカバーシートです。今、ある企業に依頼されて作っているんですが、これはサンプルの布です」

 布を手に取ってみると、しっとりとした重みがあった。

「マコト君は、神秘的なだけじゃなくて、人の役に立つ研究をしているのね。そういえば、うちのマンションの中庭にある砂場も、今ではだれも遊ばなくて、ほったらかしになっているわ。マンションの子どもたちはみんな大きくなったし、砂もすっかりよごれてしまったから、つぶして花壇にしたらどうかという意見も出ているの」

「あの砂場が? ぼくは大好きだったのに……」

「そうだったわね。だけど、ここ何年かマンションの住民も、世代交代っていうのかしら、若い人たちが入ってきて、赤ちゃんを抱っこしたお母さんも見かけるわ。また、砂場で遊びたがる子どもが育ってきているのよ」

 千早さんの言葉に元気づけられたように、マコト君はうなずいた。

 ふたたびカバンを開く。そっと引っ張り出したのは、画板にはりつけた水彩画だった。

「これ、覚えていますか?」

 

 大きな画用紙に描かれていたのは、たくさんのウサギだ。白や茶色だけではなく、ピンクや空色、グリーンなど、色とりどりのウサギたちが、画面いっぱいにちらばっている。はねているウサギ、眠っているウサギ、身をよせあっている家族のウサギ――。

「もちろん、忘れるはずないわ。私たちの大傑作よね」

 ふたりは目を見かわして笑った。

 

 20年前の夏休み、マコト君のお気に入りの場所は、町内のペットショップだった。特にウサギが好きで、ケージの前にくぎ付けになっていた。

 千早さんもいっしょに、かわいいウサギたちを観察し、マンションに帰ったあとは、スケッチブックに絵を描いて遊んだ。

 夏休みの終わりが近づいてきたとき、ふたりは描きためたウサギのスケッチを大きな画用紙に「清書」した。交代で順番に、一羽ずつ描いていった絵が完成して間もなく、マコト君は引っ越していったのだ。

 

 最高の合作となったウサギの絵と、見本品の布を並べて、

「月の光を集めるには、ブルーブラックが最適なんだけど、商品化するとなると、この色だけでは地味すぎるみたいです。たしかに、子どもが遊ぶ砂場のカバーだし、効力をそこなわない程度で、なにか夢のある絵柄をつけたほうがいいって提案されました」

 と、マコト君が言った。

「この絵を使うのね?」

「そうです。画像をコンピューターにとりこんで、布地にプリントします」

 ほんとうに久しぶりに、わくわくした気もちになって、千早さんは胸の前で両手をにぎりあわせた。

  

 ひと月もたたないうちに、マンションの砂場には、ウサギの絵柄のカバーがかけられた。オーダーメードの試作品、第1号だ。

 

 マコト君は調査のために、毎朝毎夕やってくるようになった。

 区分けした砂場の砂を採取して、検査機器で調べる。数値をタブレットに入力しながら、満足そうな表情を浮かべているところを見ると、試作品のテストは順調らしい。

 千早さんも欠かさず立ち会った。なるべく正確な検体を取るために、砂場浄化シートは慎重に動かしたほうがいいので、人手がいるのだ。

 話を聞きつけたマンションの人たちも、交替で手伝いにきた。

 みんな、久しぶりに顔を合わせる千早さんに、いたわりのこもった挨拶をしてくれた。

 

 しばらく前に、大切な家族を亡くした千早さんは、ずっと閉じこもるように暮らしていた。病院の診断ミスをうたがい、自分自身を責め、孤独にさいなまれて苦しい日々を送ってきたのだ。

 

 そして今、朝ごとに、砂の一粒一粒がきらめいているのを見つめ、夜通しはたらいたウサギたちが、大空に向かって晴れやかに飛び立っていくすがたを想像する。

「なんだか、昨日より今朝のほうが、砂場がきらきらしているように見えない?」

 と言っては、マコト君に首をかしげさせたりしていると、つかの間、おだやかな心を取りもどすことができた。

 

「砂場のカバーシートが結果を出したので、次の研究にも予算がつきそうです!」

 ある日、マコト君がうれしそうに報告しに来た。

「まぁ、よかったわね。今度はどんなテーマなの?」

「月の光の、心を癒す力についてです。その力で、眠っているあいだに、心の痛みを和らげるブランケットを作りたいと思っています」

 

 思わず深いため息をついて、千早さんはつぶやいた。

「そういうブランケットがあったなら、どんなにいいかしら」

 すると、

「試作品1号ができたら、必ず千早さんのところに届けに来ますよ」

 マコト君は力強く、約束してくれた。

にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ
にほんブログ村

そよ風に乗って(創作掌編)

 夏風邪が長びいたせいで、礼美はもう5日も学校を休んでいます。

 

 最初の2日間は、お母さんがつきっきりで看病してくれたし、おととい、昨日はバトンタッチしたお祖母ちゃんに甘やかされて、小さな子どもに戻った気分でした。

 けれど今日は、朝からひとりで留守番。礼美は退屈していました。

 

 息をしているだけでも苦しかった病状はおさまって、昨日までなら、いくらでも眠れたのが、今朝は横になったまま時間を持てあましているのです。

 まだ力の入りきらない体を起こして、リビングルームへ移りました。

 

 大きな掃き出し窓から入ってくる日差しは、カーテン越しでもまぶしいほどです。

 それなのに礼美の心は、なんとなくしずんでいました。

(こんなに休んでしまったあとで学校へ行くの、気が重いなぁ)

 窓から顔をそむけると、キッチンカウンターに置かれた見慣れない小瓶が目にとまりました。

 

 レトロなインク瓶のような見た目だけれど、持ちあげると軽く、プラスチック容器だとわかります。

 ラベルを読んで思い出しました。

     魔女のシャボン玉

     当たり付き!

 昨日、お祖母ちゃんが帰りぎわに、

「これ特注品なのよ。明日はひとりでつまらないでしょうから――」

 と、置いていってくれたのです。

 

(好奇心いっぱいなお祖母ちゃんのおみやげだから、ふつうのシャボン玉じゃないだろうけど、「当たり付き」って?)

 首をかしげながら、それでもすっかり遊ぶ気になって、礼美は窓ぎわまで椅子を運びました。

 

 大きく開けた窓から、光と風が入ってきます。

 ストローを吹くと、シャボン玉がひとつ、またひとつと、きらめきながら空に飛びたっていきました。シャボン玉遊びにちょうどいい日です。

 ゆっくりと吹いて大きなシャボン玉にしてみたり、吹き方をかげんして小さな玉をたくさんつくったりしていると、時間がたつのを忘れるほどでした。

 

(あれっ、このシャボン玉、なんとなく今までとちがう?)

 すいこまれていくような不思議な感じがして、礼美は身をのりだすように体をかたむけながら、フッと息を吹きこみました。

 耳もとで風が鳴っています。

 気がついたときには、空に浮かんでいました。まるくて、透きとおっていて、とても自由です。

 うしろをふりむくと、窓辺で椅子の背にもたれて眠っている、自分のすがたが見えました。

 

(これが当たり!のシャボン玉なんだぁ

 謎がとけたのがうれしくて、いつもの心配性は引っこんでしまいました。風をつかまえるように乗って、高く飛んでいきます。

 

 大きな空の下に広がる町は、生まれたてのようにかがやいていました。公園の木々の緑や、花の色が、はっとするほどあざやかです。建ちならぶ家の屋根は、まるで、読んでいる途中でふせた本のようでした。

 

 にぎやかな商店街を越えると、小学校の校舎が見えてきました。ちょうどお昼休みの時間です。礼美は校庭の上空を横切って、自分の教室の窓を目ざしました。

(クラスのみんな、どうしてるかな?) 

 カーテンのわきにふわりと止まり、なかをのぞきこみました。

 教室のうしろのほうで、何人か集まってしゃべっています。礼美と仲のいい、さくらちゃんやヒロキくんのすがたも見えました。みんなの楽しそうな輪のなかに、自分の居場所はもうなくなっている気がして、礼美は少しさびしくなりました。

(こなければよかった)

 光をはじいてきらめいていたシャボン玉は、飛ぶ力をなくして、ただようように落ちていきます。

 

 その時、だれかが言いました。

「礼美ちゃん、早くよくなるといいね」

「そうだね」

「今日また、おみまいにいこうよ」

「うん」

 

 うれしさで胸がいっぱいになったいきおいで、シャボン玉は、はじけて消えました。

 

 礼美は、リビングルームの窓ぎわで目をさましました。

(あの声は、さくらちゃんだったわ。それから「うん」って答えてたのはヒロキくん)

 ほほえみながら手もとを見ると、シャボン玉の小瓶は空っぽになっていました。

 

 さいごのさいごに、当たり!が出たようです。

 

f:id:toikimi:20170926094052p:plain

 

 

にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ
にほんブログ村

落とし穴(創作掌編)

 真夜中に、ふと目がさめた。

(何か、音がしたかな)

 耳をすますと、庭の方から話し声が聞こえてくる。針が落ちる音のような、小さな声だ。

 

「――それから、ミドリ町のミドリ公園では、二日前に殺虫剤が散布されました。皆さん、しばらくのあいだ注意して下さい」

 そんなことを言っている。

 私は横になったまま、聞き耳をたてた。

 

「以上で、今月のお知らせはおしまいです。他に何か発言したい方はいらっしゃいますか?」

「はい、議長」

 と、声がかかる。

「近頃、落とし穴を掘るという、嘆かわしいいたずらがはやっています。これは、私たちが先月の集会で、地面を歩くことの大切さを訴え、これからは歩けるところは飛ばずに歩きましょう、と提案したことに対する嫌がらせにちがいありません」

「落とし穴ですって? その報告はまだ届いておりませんでした。誰か落ちて怪我などしていないといいのですが」

 議長が心配そうに尋ねた。

「それは、まだありません。しかし、落ちなかったからいい、という問題ではないのです。これが危険な悪ふざけだということにかわりはないのですから」

 

 すると、別の方から、からかうような声が聞こえた。

「おおげさだなあ。落とし穴のどこがそんなに危険だっていうんだい。もし落っこちたとしても、飛んで抜け出せばいいだけじゃないか」

「そうよ、歩いているばかりいるうちに、羽があることを忘れしまったんじゃないの?」

 

 挑戦的な発言をきっかけに、おおぜいが口々に言い立て始めた。

「なんですって!」

「そっちこそ、すっかり足が弱って、ふらふらしてるくせに」

「足がなんだ。羽さえあればどこでも行けるじゃないか」

 

 どうやら、歩くのが好きな「地面派」と、飛ぶのが好きな「空派」が半々くらいいて、たがいに一歩もゆずらない様相だ。

(おもしろいな。なんだか、大騒ぎになってきたぞ)

 といっても、風がさわさわと草むらをゆするくらいの音だったけれど。

 

「歩くことも、飛ぶことも、両方大切なんじゃありませんか」

 ひときわ高く、議長がさけぶと、いっせいに抗議の声があがった。

「両方なんて、ダメだよ」

「そうよ、そんなのずるいわ」

「そうだ、そうだ!」

 すかさず、議長が、

「ようやく皆さんの意見が一致しましたね。それでは、今夜はこれで閉会!」

 と、告げる。

 気勢をそがれた感じの笑い声もおきて、集会はにぎやかに解散した。

 

 翌朝、庭を探してみると、小指でつついたような、小さな落とし穴がいくつか見つかった。

 そのうちの一つに、テントウムシが一匹落っこちていた。仰向けに落ちたせいで羽が広げられず、足をジタバタ動かしている。

 

 私は、小指の先にそのテントウムシをとまらせて逃がしてやった。

 

 

 

にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ
にほんブログ村

カタツムリの夢(創作掌編)

 一晩中、降りつづいた雨があがりました。

 

 紫陽花の葉かげで眠っていたカタツムリは、目をさまして、のんびりと動きはじめます。くもり空と、しめった空気が、気もちのいい朝でした。

 

 丸いかたちに寄りあつまって咲く紫陽花が見えてきました。

「また、青くなった。やっぱり、雨がふるたび、青くなる」

 ひとりうなずきながら、あざやかな青い花をながめます。

 

 さいしょ、花は白っぽい色をしていました。カタツムリは、花も葉っぱのように、みどり色になるのだと思いました。

 ところが、花は青い色に変わりはじめました。ひと雨ごとに、どんどん青くなっていきます。

 

     青い空は、雨が降ると青くなくなる

     紫陽花は、雨が降ると青くなる

     と、いうことは――

 

「そうか、空の青が、雨にとけて降ってきたんだ。それで、花は青くそまったのさ」

 ふと、心配になって、自分のからだを見まわします。

 だいじょうぶ、紫陽花のように、青くそまってはいません。きれいなカタツムリ色のままでした。

 ほっとして、朝ごはんを食べにいこうとしたときです。

 

 パチン!

 植木バサミの音がひびき、葉っぱがはげしくゆすぶられました。ふり落とされまいと、カタツムリはひっしでしがみつきました。

 女の子が、紫陽花を一枝、カタツムリの乗っていた葉ごと切りとったのです。

 水の入ったガラスびんに花をさし、そのまま庭先から出ていきます。

「おばあちゃん、好きだって言ってたから、きっとよろこぶわ」

 楽しげに、はずむような足どりでした。

 

 なにも知らないカタツムリは、殻にかくれてふるえていました。とつぜんふりかかってきた出来事に、生きた心地もしません。

 

「あれっ?」

 しばらくして、女の子が立ちどまりました。

 カタツムリに気づいたのです。葉の上から小さなカタツムリをつまみあげ、あたりを見まわすと、路地に咲いている紫陽花のところへ行って、そーっと置きました。

「気がつかなかったのよ。ごめんね」

 女の子の声と、遠ざかっていく足音を、カタツムリは殻のなかで聞いていました。

 

 殻から顔を出したのは、ずいぶん時間がたってからです。

 大きく、みずみずしい葉っぱの上でした。あたりは、うっとりするような静けさにつつまれています。

 けれど、さっきまでのおそろしさから、かんたんに立ち直ることはできません。びくびくしながら、かさなりあった葉のかげへ向かって、はいはじめました。

 

 丸くあつまって咲く紫陽花が見えてきます。

 花は、やさしいピンク色をしていました。

 

 カタツムリは、びっくりしてピンク色の紫陽花を見あげました。

「こんな色を見るのは初めてだ。なんて、うつくしい色だろう。――花の色は、雨がそめるんじゃなかったのか」

 その日、カタツムリは花をながめてすごし、花のそばで眠りました。

 

 そして、広い世界を旅して、さまざまな色のカタツムリに出あう夢を見たのです。

 

 f:id:toikimi:20170925165133p:plain

 

にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ
にほんブログ村

 

 

16番の下足箱(創作掌編)

 天に向かってまっすぐ伸びた煙突を目当てに、圭太は道をさがしていた。

 

 社会人になってから3年半、いよいよ会社を辞める決心をして、ワンルームのマンションからユニットバスもついていないアパートに引っ越してきたばかりだ。

 近所に銭湯があるのはわかっていたし、家賃は半分以下になる。

(ただ寝に帰るだけの部屋だから、これで十分だ)

 来月から圭太は、後継ぎのいない遠縁の職人に弟子入りするのだ。

 

 タオルと石鹸の入ったポリ袋を手に、日暮れの町に出る。

 いりくんだ路地を歩いていくと、やがて銭湯の入り口が見えてきた。

 

(ここ、むかし百じいと行ったお風呂屋さんにそっくりだ!)

 圭太は思わず立ちどまった。

  宮造りの屋根、藍染めの暖簾、履き物をぬいであがる板の間、そして、壁一面に番号をふった下足箱が並んでいる。

 幼いころ、祖父と通った銭湯が、そのまま目の前に現れたようだった。

 

「俺は百まで生きる」が口癖で、まわりから「百じい」と呼ばれていた祖父は、圭太をとてもかわいがってくれた。

 いっしょに銭湯へ行くと、百じいはいつも16番の下足箱に、自分の下駄と、圭太の運動靴をしまった。

 16は、「巨人軍の川上」という、圭太が生まれるはるか前に大活躍した野球選手の背番号だ。たまに16番がふさがっていると、ムッとした顔になった。

 

 ふたりで背中の流しっこをするのが楽しかった。

 祖父の背中には、肩甲骨の内側にそって、長い傷跡があった。若いころ肺結核に罹って、大手術をしたのだという。

「今なら薬で治る病気だが、昔は、ろっ骨を何本も切ってしまわんと助からなかったんだよ。麻酔もたいして効きはしなかったから、そりゃあ大変だった」

 手術を終えた患者は、ベッドの枠に固く結びつけられた手ぬぐいをにぎりしめて、痛みにたえるしかなかった。

 話を聞いてふるえあがる圭太に、

「まあ、俺は手ぬぐいじゃなくて、看護婦さんがずっと手をにぎっていてくれたけどな」

「おじいちゃんだけ、どうしてなの?」

「そりゃあ、俺が男前だったからだよ」

 

 この話、何回聞いたことだろう。百じいのお気に入りの話は、圭太もくりかえし聞いてあきなかった。

 

 銭湯には四角い大きな湯船があって、広くて浅い部分と、狭くて深い部分に仕切られていた。狭いほうのお湯は熱く、江戸っこの祖父は必ずそちらへ入った。

「年をとったら熱いお湯はよくないって、おばあちゃんが心配してたよ」

 圭太が注意しても、

「つかる前に、ちゃんとかけ湯をしておけば大丈夫だ。それに、こんなのは熱いうちに入らん、ぬるま湯だ。いいか、軍隊でも、俺の熱い湯好きは有名だったんだぞ」

 と、やせた胸を張った。

 

 軍隊では、銭湯のような風呂場があって、階級の偉い順から入ったそうだ。

 祖父たち新兵は、いちばん後の方、よごれてぬるくなったお湯にしかつかれなかった。

 けれど、わかしたての風呂は、上半分がかなり熱くなっていても、底の方はまだ水のままだったりする。大きな湯船なので、外に立ってかきまわしても、全体はまざりにくい。

 すると、上官から「行けっ!」と、お呼びがかかる。

 「そこで、俺が湯の中へとびこんでな、歩きながら両手両足をつかってかきまわしてやるのさ。おかげで、一番風呂にはつかれるし、上官にはほめられるしで、いいことずくめだった」

 そんなふうに、自慢していた。

 

(百じいは、ほんとに偉かったなぁ)

 圭太は天国の祖父に、胸の内で語りかけた。

 

 肺結核の手術も、戦争や軍隊も、圭太には想像もつかないほど過酷なことだ。

 それなのに、看護婦さんがやさしかったとか、熱い湯好きが役に立ったとか、明るい顔で話していた。幼い圭太にはわからなかったけれど、不運や苦労を笑いとばす底力を、祖父は持っていたのだ。

 

(会社を辞めて、新しい道に進むこと、ほんとは不安でたまらないんだ。でも、ぼくだって百じいの孫だ。きっとどこかに、同じ「底力」を受け継いでいるよね?)

 

 圭太は銭湯の暖簾をくぐり、16番の下足箱をさがしはじめた。 

f:id:toikimi:20170910132316p:plain

 

 

にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ
にほんブログ村