家で仕事をするのは好きだけれど、まったく外へ出なかった日は、もの足りない気持ちになる。
そう言うと、ハヤさんが意味ありげにうなずいて答えた。
「閉じ込められた魂は、自由を求めるものです。『憧れる』のもとになった古語『あくがる』には、魂が体から離れてさまよう、という意味がありましたね」
「なるほど……。私がコンビニへお菓子を買いにいくのも、憧れを満たしている行為というわけか」
まぜかえしながら、ハヤさんの昔語りが始まるのを待った。
△ ▲ △ ▲ △
お千代様の屋敷で、年に幾度か行われている集いの席で、伊作が語った話である。
「母は亡くなる数年前から、脚の具合を悪くして、表へ出られなくなりました。それでも膝行りながら、家の内のことをやってくれて、ほんとうにありがたいことでした」
と、涙ぐむ。 伊作は先頃、母親の一周忌法要を終えたばかりだ。
その母御の生前に起こったという、不思議な出来事だった。
ある晩、寄り合いで引き止められて帰りが遅くなった伊作は、昇り始めた月の明かりを頼りに、夜道を急いでいた。
ふと、視界をかすめるように動いていく淡い光を感じて、立ち止まる。
振り向くと、握りこぶし大の火の玉が、宙に漂っていた。
(人魂!)
話に聞くほど、おどろおどろしいものではない。きらめく光の粒をあつめたような、美しい玉だ。
驚いたことに、その人魂らしきものは、まるで伊作から逃げるかのように、急に進む方向を変えて、木の陰に隠れた。
好奇心に駆られ、思わず一歩踏み出すと、今度は背後から耳をかすめるように現れて、手を伸ばせば届きそうなほどの距離に浮かんでいる。
(別の人魂なのか? それとも、自由自在に消えたり現れたりできるのだろうか?)
火の玉がふわりと動きはじめた。
少し先に行っては止まり、行っては止まり、という動きを繰り返す。伊作を誘っているようにも見える。
ちょうど帰り道と同じ方向だ。引き返すわけにも、道をそれるわけにもいかず、伊作はゆっくりと付いていった。
(そういえば、前にお千代様が「本所七不思議」というのを教えてくれたっけ。そのなかに「送り提灯」という怪があったな)
家が近づくと、伊作は胸騒ぎを覚えた。
独りで留守をしている母のことが、心配になってきたのだ。
火の玉が家の戸口に吸い込まれるように消えるのを見て、履物を脱ぎ飛ばし、寝所へ急ぎ向かう。母は布団の上で半身を起こして、大きく目を見開き、駆け込んできた伊作を見つめた。
「夢のなかで楽しく月夜の散歩をしていたら、何者かに追いかけられ、あわてて家に逃げ帰ってきたところで、目が覚めた」
という。
「思えば、いくつになっても少女のようなところのある母でした。山菜取りに行ったはずが、珍しい草花や、巣から落ちた小鳥の雛を、大切そうに持ち帰ったりして……。そんな母が家から出られないのが不憫で、おぶって散歩に行こうとしたのですが、恥ずかしがるものだから、結局、数えるほどしか出掛けられませんでした」
おそらく伊作の母御の魂は、深い眠りのなかで、不自由な体から抜け出し、思うままに野山や町中を散歩していたのだろう。
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ハヤさんが私を見て、
「伊作がこの話をしたとき、お千代様がはっとしたように目を見張ったのです。思い当たることがあったに違いないのですが、口をつぐんだままでした。瑞樹さん、何か覚えていませんか?」
と尋ねる。
「──うん、思い出した。私が千代だったとき、誰にも話さないと約束したことだったから、黙っていたの。でも、もう時効だよね」
「誰と約束したんです?」
「千代の、年の離れた弟。とても頭のいい人で、学問の道へ進んだのだけれど、結核に罹ってしまい、志半ばで帰ってきたの。実家の離れで長いあいだ療養していたから、千代は折に触れ見舞っていたのよ」
ほっそりと白い顔に、穏やかな笑みを浮かべて、弟は言った。
ときどき、魂が抜け出して、空を飛びまわるのだと。
とても心楽しく、もう二度と、病に疲れた身体へ戻れなくてもいいと思う。
そして、ある日、もうひとつの魂と出合った。
顔も見えず、話ができるわけでもない。それでも、ひとりよりふたりでいることの喜びは、計り知れなかった。
この世に、自分と同じような人がいる。そのことが不思議なほど、心強く思われた。
「伊作さんが最初に見つけたのは、きっと弟の魂だったのね。追いかけようとしたので、お母様の魂がかばうようにさえぎり、伊作さんを家まで連れて帰ったんだわ」
今はもう、この世にいない人たちの優しさが、胸に沁みた。