在宅の仕事でアイデアに詰まり、気分転換を兼ねて散歩に出た。
「いい月夜ですね」
といって、ハヤさんもついてくる。
中天にかかる月は明るく、私は額のあたりに、ひんやりと澄んだ光を感じながら歩いた。
「なんとなく、頭が冴えてきたような気がする」
「それはよかった。月には神秘的な力がありますからね。そういえば、僕が寸一だったころ──」
ハヤさんが、行者として生きていた前世の記憶を語り始める。
△ ▲ △ ▲ △
山朽家は何代も続いた長者の家だったが、主の留守中に、家人と使用人が毒茸にあたり、ほとんど全ての者が亡くなった。難を逃れたのは、外へ遊びに出て気をとられ、昼飯を忘れた末の娘ただひとりだった。
主は屋敷を閉め、生き残りの娘を連れて出て行ったきり、十数年戻らずにいる。
長者屋敷の広大な庭の奥には「月見ヶ池」という池があった。
漆を塗ったような水面に映る月影は、本物の月もかくやと輝き、折に触れ月見の宴が催されたという。
今でも満月の夜には、物好きな若者が壊れた塀の隙間から入り込むことがあり、その者たちから、奇妙な話が伝わってきた。
隙間から中に入ったはずが、元いた塀の外へ戻ってきてしまう。幾度か繰り返しても同じで、どうしても内側へ行くことができず、そのうち空恐ろしくなって逃げ帰った、というのだ。
寸一は次の満月を待って、長者屋敷へ出向いた。
塀の隙間を探すまでもなく、門が半ば開いている。内へ入ってみると、待ち構えたように立つ人影があった。
月の光に照らされた顔を見て、思わず声を上げそうになる。
はるか昔に別れたきりの、兄弟子だったのだ。とび抜けて知力に優れていたが、狷介な人物で、共に学んでいた師のもとから、別れも告げず姿を消してしまった。
「寸一、お前が来ることはわかっていた。いらぬ邪魔立てをするな」
と言い放ち、返事も待たずに庭の奥へ歩み去る。
追いかけていくと、月見ヶ池のほとりに立ち、池の中心へ右腕を差し伸べている後ろ姿を見つけた。漆黒の鏡のような水面には、見事な月影と、それに向かってゆらめきながら伸びていく、青白い腕の影が映っている。
寸一は兄弟子が、師から固く禁じられていた妖術を使おうとしていることを察知した。
もし、鉤爪そっくりに見えるあの指先が、水面の月影に届けば、影を通じて月の霊力を盗み取ることが出来るのだ。
「どうか、思いとどまって下さい。邪な術で得られる力は刹那的なもの。その先には破滅しかありません」
理を分けて訴えると、兄弟子は舌打ちをして、肩越しに振り向いた。鋭い視線に射抜かれ、寸一は身動きができなくなり、そのまま暗い霧のなかに閉じ込められてしまった。
どれほど時が経ったのかわからない。気づいてみれば、いつの間に戻ったものか、寄宿している寺の禅堂に端座していた。
すぐさま表に出て未明の空を見上げ、暗然とする。
月の下方の端が、えぐり取られたように欠けていたのだ。
(あのような月を見て、怯えない者があるだろうか。せめて今夜は、誰も目を覚まさぬよう願うばかりだ)
まんじりともせずに夜を明かし、日の出と共に再び、月見ヶ池へ向かう。
今宵、十六夜の月は、本来の全き姿で昇ってくることを、寸一は疑っていなかった。
兄弟子がたどったであろう運命もわかっている。
寸一は、兄弟子の慢心より、古来より伝わる叡智のほうを信じていた。
『日』と『月』は、姉弟神であるといわれている。
月の輝きは、姉神である『日』と分かち合われているものなのだ。
『月』から光を盗めば、必ず『日』が取り返しに来る。
昨夜のまま開いている長者屋敷の門を抜け、奥へ進んで行くと、池の近くで事切れて横たわる、兄弟子の姿が目に入った。
体半分が焼け焦げており、殊に右腕は酷く、炭と化していた。
△ ▲ △ ▲ △
「せめてもの救いは、その死顔が安らかだったことです。思えば兄弟子は、けっして手に入らないものを求めてやまない人でした。自分でも如何ともしがたい渇望に、衝き動かされてきた一生だったのです」
と、ハヤさんは沈んだ声で言った。
「もしかしたら、その人、寸一に最期を見届けてもらいたかったのかもしれないね。それにしても、あの月見ヶ池でそんなことがあったなんて……」
昔語りを聞いているうち、私の脳裏に、長者屋敷の華やかな月見の宴のことが、断片的な光景として浮かんできた。
「瑞樹さん、さっきから時々、額を押さえているけれど、ひょっとして頭痛ですか?」
立ち止まってハヤさんが尋ねる。
「なんとなく、おでこがチクチクするの。今夜ずっと、月の光を浴びていたせいかな。明日の朝起きてみたら、ここだけ火傷したみたいに赤くなっていたりしてね」
答えると、ハヤさんはやけに楽しそうに笑った。
「だいじょうぶですよ。太陽の恵みも、月の霊力も、惜しみなく分け与えられているんですから。受け取って活用するのに、遠慮も心配も要りません。たぶん、ね」