柳田國男さんの文章が好きなので、口語訳には関心が薄かったのですが、ラジオ番組で紹介されているのを聞き、読んでみたくなりました。
- 作者: 柳田国男,小田富英,佐藤誠輔
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2014/07/08
- メディア: 文庫
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ちょうど『遠野物語』について書こうとしていたタイミングでもあり、こういう偶然に乗って正解でした。
『遠野物語』(原典)では、119話それぞれに番号が振られています。そして「題目」というページに、
神の始め 二、六九、七四
ザシキワラシ 一七、一八
天狗 二九、六二、九〇
河童 五五―五九
というように、主題と通番が紐付けられているのです。
「寒戸(さむと)の婆」という話があるのですが、「題目」は「昔の人」で、八、一〇、一一、一二、二一、二六、八四、と振ってある7話のうちのひとつ、「八」の話になります。読みたいと思って探しても、なかなか見つけられません。
八 黄昏に女や子供の家の外に出てゐる者はよく神隠しにあふことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸といふ所の民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎおきたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音の人々その家に集まりてありし処へ、きはめて老いさらぼひてその女帰り来たれり。いかにして帰つて来たかと問えば、人々に逢いたかりしゆゑ帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、けふはサムトの婆が帰つて来そうな日なりといふ。
口語訳では、一話ごとに内容に添ったタイトルがつき、目次で一覧できるので、目当ての話が簡単に探し出せるようになりました。
8 寒戸の婆(さむとのばあ)
黄昏どきになっても、家の外に出ている女や子どもが、神隠しにあって、どこかへ行ってしまう話は、よその郷と同じように遠野でもよくありました。
ある時、松崎村寒戸という所の民家で、若い娘が梨の木の下に草履をきちんと脱ぎ置いたまま、ふいっと行方知れずになったことがありました。
ところが、それから三十年あまりたったある日、すっかり年を取り、よぼよぼになったその女が、梨の木のあるあの家をたずねて来ました。その家ではなにか寄合があって、親類や近所の人たちがおおぜい集まっていました。が、だれも、その老女を知りません。
「おめさん、どこのだれだべ」と、一人がたずねると、
「おれ、こごの娘だ」と言うのです。
「今までどごさ行ってらった……。なじょして(どのようにして)、帰って来た……」
と、みんなが、たたみかけると、白髪の女は言いました。
「なんとしても、家の人たちに会いたかったがらよ。でもよかった、みんなの顏見たがら。ほんでまず(それでは、また)おれ行くから」
と、言ったかと思うと、老女はまた跡形もなくふっと消え去ってしまいました。
その日は、風のはげしく吹き荒れる日でありました。それで、遠野の人々は今でも風のさわがしい日があると、
「今日は、寒戸の婆が帰って来そうな日だな」
と、語り合っているのです。
さらに、新たな注釈として、「寒戸の婆」は松崎村字登戸の茂助という家の話で、サダという名の娘であったことなどが書き加えられています。
『遠野物語』の内容は多岐にわたり、どれも不思議な魅力にあふれていますが、とりわけ印象深いのは「マヨヒガ」(六十三話、六十四話)です。
マヨヒガは「まよいが」と読み、「迷い家」「迷い処」などの字を当てるようです。
「六十三 小国(おぐに)の三浦某といふは村一の金持なり。今より二、三代目の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍(ろどん)なりき」(原典)
と、物語は始まります。
この妻がある日、門前(かどまえ)を流れる小川に沿って、蕗を採りに山へ入りました。よいものが少なく、いつのまにか谷の奥深くまでさかのぼっていき、見たことのない立派な黒い門のある屋敷を見つけます。
紅白の花が広い庭一面に咲き、家畜も数多くいます。玄関から中へ入ってみると、開け放した次の間には、豪華な膳や椀などがたくさん置いてありました。
奥の座敷では、火鉢に乗せた鉄瓶の湯が沸いているのに、どこにも人影はないのです。
(もしや山男の家ではないか)
と、急に恐ろしくなり、一目散に走って家へ帰り着きました。家の者たちに話しましたが、誰も信じてくれません。
ところが、また別の日に、家の門前で洗い物をしていると、川上から赤い椀が一つ流れてきました。とても美しい椀だったので拾い上げ、ケセネギツ(穀物貯蔵用器)のなかに置いて、米や雑穀を量る器にしました。
すると、その椀で量り始めてからというもの、いつまで経ってもケセネギツの中身がなくならず、それからもこの家は幸運に恵まれ、ついに村一番の金持ちになりました。
「遠野では、山中の不思議な家をマヨイガといいます。マヨイガに行き当たった人は、かならずその家の道具や家畜、なんでもよいから、持ってくることになっているのです。なぜなら、その人に授けようとして、このような幻の家を見せるからです。三浦家の妻に欲がなく、なにも取ってこなかったので、このお椀は、自分から流れてきたのだろうということです」(口語訳)
おもしろいことに、次の六十四話では明暗が分かれます。
ある娘聟が実家へ行こうとして山中で道に迷い、マヨヒガに行き当たります。やはり恐ろしくなって逃げ帰りますが、村人はマヨヒガのうわさを聞いていて、膳椀をもらって長者になろうと、聟を先頭に立てマヨヒガを探しにいくのです。ところが、ここだというあたりをいくら探しても、見つけることはできませんでした。
口語訳の訳者、佐藤誠輔さんの「訳者あとがき━原典への橋渡しとして━」は、なかなか衝撃的な始まり方をしています。
「言いにくいけど……、限りなくおもしろくないなっす。このお話」
第三話「山女の黒髪」を口語訳(直訳)して、最初に読んでやった時の、妻の答えがこれです。
一つ一つの言葉を吟味して、文や文章を可能な限り切りつめ、文語体の重々しくもまた、流れるような口調をわざわざ選んで書き綴った柳田国男の名文。それを平凡な口語体の、しかも敬体に置きかえることの無謀さは、わかっていたつもりです。が、この一言には参りました。
「でも、わかりやすがんすよ。口語体のほうが」
こう言って、妻はなぐさめてもくれました。
『遠野物語』の奥深い世界へ踏み込んでいくとき、口語訳は頼もしい案内役となってくれるに違いありません。
願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。(初版序文)
『遠野物語』のなかで最も好きな一文です。最も有名な一文でもあります。
「どうか、そのような話をどんどん語って、都会人を心底からこわがらせ、目ざめさせてください」(口語訳)
柔弱な「平地人」である私ですが、『遠野物語』に触発されて、いくつか昔語りの掌編を書きました。もちろん戦慄せしめる要素はありません。
加筆修正しながら、載せていきたいと思います。