ついさっき結婚を約束したばかりの僕と初音は、降りしきる雨のなかを歩いていた。
(あれ、いったい僕たちは、どこへ行こうとしているんだろう?)
傘を打つ雨音で、ふと我に返る。
フレンチレストランでプロポーズして、初音が承諾してくれたあと、極度の緊張から解放され、安堵感で夢心地になっていたらしい。
ほどなくして、あずまやのある公園に着いた。
傘をたたんで屋根の下に入り、ベンチに腰掛ける。規則的に植えられた木々の向こうに、高層ビル群の明かりが美しい。
横顔を見せたまま、初音が言った。
「昔話をひとつ、聞いてくれますか? 私の家に伝わる話で、母から娘へ、代々というより転々と、語り継がれてきた昔話」
唐突さにとまどいながら、僕はうなずいた。
△ ▲ △ ▲ △
昔、ある村に古いお社(やしろ)がありました。
村じゅうの人びとが集まる秋祭りでは、夜通し、かがり火がたかれ、さまざまな奉納舞が行われます。
宝物殿に納められた舞衣装のひとつに「羽衣」と呼ばれる単の上衣があり、その年に選ばれた娘だけがまとうことを許されていました。
ところが、日が暮れてから降り出した雨のせいで、羽衣の舞は取りやめになってしまいました。屋根のない平舞台では、大切な衣装が濡れてしまうからです。
舞手に選ばれていたのは、お社のそばに住む娘でした。
幼いころから敬い慕っていた神様のため、長いあいだ稽古を重ねて、心待ちにしていた奉納舞です。どうしてもあきらめきれない娘は、夜更けにそっと家を出ました。
自分の持っている、ただ一枚の晴れ着を胸に抱え、雨をついてお社へ向かったのです。
村の若者がひとり、かがり火の番をしていましたが、舞台へあがる娘を止めようとはしませんでした。
娘は晴れ着を打ち掛けてはおり、舞い始めました。雨音にまぎれて何処からともなく、笛や鼓の調べが聞こえてきます。
一心に舞いきった娘は、晴れやかな顔でひれ伏しました。
不思議なことに、その髪にも、着物にも、雨粒ひとつ付いていなかったのです。
△ ▲ △ ▲ △
「娘は、かがり火を守っていた若者と結婚して、幸せに暮らしました」
話を結ぶと初音は、思わず引き込まれるような笑顔を見せた。
「その娘と若者の子孫が、初音なんだね」
「ええ、私はこのお話が大好きで、母にせがんで繰り返し聞かせてもらったわ。でも、父と兄には内緒だったの。母親から娘だけに伝わる、秘密の物語だから」
「どうして、秘密なの?」
尋ねると、初音は真顔になって僕を見つめた。
「それはね、物語と一緒に、神様から授かった不思議な力も、母から娘へと受け継がれているからよ。雨のなかに出ても濡れることがない、そういう特別な力は、人に知られてはいけないの。それが、智恵というものなんですって。小さいころからいつも、母に言われてきたわ。けっして雨に当たってはいけない。どんな天候の日でも、必ず傘を持ち歩きなさい。風邪を引くだけじゃすまないのよ……って」
聞きながら、僕はひそかに考えた。
(ひょっとしたら、あまり体が丈夫ではなかった初音のために、お母さんが創作した昔話なのかもしれない)
けれど、口に出したのは別の言葉だ。
「大事な秘密の物語を、教えてくれてありがとう」
すると、初音はうれしそうに微笑んで、
「母には言わなかったけれど、ずっと思っていたの。神様からの大切な贈りものを、まるで善くないことのように隠し続けるのは、どこか間違っているわ」
と、言った。
「そこで、見ていてね」
初音は立ちあがり、ためらいもなく、降りそそぐ雨の下に歩み出ると、僕の正面で向き直った。
街の明かりに照らされて、雨は銀色に光る糸のように見える。
その雨が、初音の頭上でふたつに分かれていた。連なった無数の雨粒は、身体のまわりを覆う透明なベールにはじかれて、初音に触れることなく、きらめきながら流れ落ちていく。
僕はたじろいで息をのんだ。一瞬、心をとらえた怯えが、それよりずっと強い感情に押し流されていく。
昔話は真実を語っていたのだ。
かがり火を守っていた若者は、きっと今の僕と同じ気持ちだったにちがいない。