銀ひげ師匠の書道教室は定休日だったけれど、晶太は書道だけではなく、魔法の弟子でもあるので、修行は休まずに続ける。
入り口の引き戸を開けると、師匠が玄関まで来て、
「ちょっと出掛けてくるよ、すぐ戻るからね」
と言い、入れ違いに出て行った。
ところが「ちょっと」でも「すぐ」でもない、1時間近く経ってから戻ってきた銀ひげさんの姿を見て、晶太は目を見はった。
肩から背中のあたりが、白っぽいもやに包まれていたのだ。
「師匠、背中になんか付いてますけど?」
「うん、生まれたての煙の神様だよ。用事を済ませて戻る途中、神社で篝火を焚いているのを見かけてさ、まだ明るいうちから珍しいことだと思って、お参りしたらね━━」
神社には、樹齢数百年というご神木があるのだが、その枝先が折れて、かなり離れた場所で焚かれていた篝火の中へ落ちたのだという。
風も吹いていないのに、まるで、自ら飛び入ったようにも見えた。
白い煙がもくもくと上がり始める。
「自然に折れて落ちるくらいだから枯れた枝だと思うけれど、それでも水分が残っているから煙が白くなるんだろうね。さっそく、ご挨拶した」
あらゆるものにはそれを司る神様がいる、というのが、晶太が習っている魔法の考え方だ。八百万の神というわけで、魔法使いは「ウタ」と呼ばれる呪文を唱えて神様に挨拶し、合言葉を授かる。魔法使いの力量とは、合言葉の数と、それを使いこなす技術なのだ。
ご神木の枯れ枝から、火によって生まれ変わった煙の神様は、銀ひげさんの挨拶に応えて、すぐに合言葉を返してくれた。
「今まで私も、様々な神様と接してきたが、これほど好奇心の強い神様は初めてだよ。とにかく、何もかも珍しくて仕方ないんだね。目まぐるしく境内を飛び回っていたけれど、しばらく見物していた私が帰ろうとしたら、付いてきちゃったんだ」
今度は晶太が興味の対象となったらしく、神様は物珍しそうに近寄ってくる。晶太も「ウタ」を唱えて挨拶し、無事に合言葉を授かった。
煙の神様は銀ひげ師匠の家に、しばらく滞在することを決めたようだ。
そこで師匠は、書道教室の生徒さんたちを驚かさないために、
「煙の白さを少し控え目にして下さい」
と、お願いした。
願いは聞き届けられ、煙の色は透きとおって目立たなくなった。
教室には、幼稚園児からお年寄りまでいろいろな人たちが集まる。神様はひとりずつお習字をながめたり、表情をのぞきこんだりしていた。誰かが笑い声を上げると見に行き、元気のない子に気づけばぴったりとくっつく。
銀ひげ師匠が外出するときは、いつも一緒だ。散歩が大好きで、帰るのをいやがるから、なかなか大変らしかった。
晶太の家まで付いてきて、一晩泊っていったこともある。
怖いもの知らずの神様だけれど、雨だけは苦手なようだった。
「やっぱり、煙がご神体だから、水をかぶるのはNGなんだろうね。雨の日の散歩は、外に飛び出せなくて傘の中でぐるぐる回り続けるから、私まで目が回ってしまうんだ」
そこで銀ひげさんが、透明なポリ袋を差し上げると、これが神様の大のお気に入りになった。
中に入れば、雨に当たることなく、自由に表を飛び回れる。
そればかりか、晴れていても、家の中でも、風に舞うポリ袋になりきって遊んでいるのだった。
やがて、煙の神様は逗留を終えて旅出っていった。
何百年もの間、ご神木のてっぺんから眺めていた世界を、直に見に行くことにしたらしい。
「さびしくなっちゃいましたね……」
と、晶太が言うと、
「そうか? 君はずっと一緒に暮らしていたわけじゃないからね。どちらかというと、私はホッとしてるよ」
そんなふうに答える銀ひげさんの横顔も、何となくさびしそうだ。
それからというもの晶太は、風が強い日にポリ袋が吹き飛ばされてくると、立ち止まってじっと見てしまう。
今にも中から、煙の神様が現れるような気がするのだ。