かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

ユングの臨死体験

 

以前から臨死体験の話には興味を持っていましたが、両親が他界したことで、関心が深まったように思います。

「死の受容のプロセス(否認~怒り~取引~抑うつ~受容)」で有名なエリザベス・キュブラー・ロス博士の本を読むうち、さらに広範囲に知りたくなり、たどりついたのが、
立花 隆 著『臨死体験〈上・下〉』(文春文庫)でした。

 

臨死体験〈上〉 (文春文庫)

臨死体験〈上〉 (文春文庫)

 

 

【内容】
まばゆい光、暗いトンネル、亡き人々との再会──死の床から奇跡的に蘇った人々が、異口同音に語る不思議なイメージ体験。
その光景は、本当に「死後の世界」の一端なのだろうか。
人に超能力さえもたらすという臨死体験の真実を追い、著者は、科学、宗教、オカルトの垣根を超えた、圧倒的な思考のドラマを展開する。 

 

 「私はかねて臨死体験に興味をもっていた」という著者は、1990年にワシントンのジョージタウン大学で、13ヵ国300人の研究者と体験者を集めて開かれた、臨死体験研究の第一回国際会議に出席し、1年間をかけての取材は、日本各地はもとより、アメリカ、カナダ、イタリア、インドにまで及びます。

先述のロス博士をはじめ臨死体験研究の第一人者や、国内外の体験者へのインタビュー、最新の脳生理学から精神世界まで、幅広く多方面にわたる理論や実験の紹介など、圧倒的な知的探究心には敬服しました。

 

臨死体験の話は、日本の歴史的文献にも記されていて、その最初は、平安時代初期の仏教説話集『日本霊異記』だといわれます。

推古天皇の時代、聖徳太子の侍者をしていた男が、聖徳太子が亡くなった4年後に死ぬのですが、3日間過ぎてから突然生き返り、妻子に語ったという話です。

彼は、かぐわしい香りに満ちた五色の雲の中を歩き、黄金の山で亡き聖徳太子に出会います。そして、

「はやく家に帰って仏を作る場所を掃除せよ」

といわれ、現世に戻ってくるのです。

 

たくさんの文献や証言に触れるうち、著者に生じてきた不満は、体験者の原体験そのものと、その表現との間にある深い落差でした。

「その落差がどれくらい大きいかは、その人の言語表現能力、記憶力、観察力、内省能力などにかかってくることだから一口には何ともいえない」

 しかし、ここに、このすべての能力をかねそなえた原体験者自身が記録者になったという稀有の体験例がある。〈中略〉精神医学の巨人、C・G・ユングその人である。ユング自身が臨死体験をしているのである。それが彼の自伝(邦訳・みすず書房刊)の中に詳細に記されている。

  読んでいて心躍るような、スーパースターの登場です。

 

ユングは1944年のはじめに、心筋梗塞につづいて足を骨折するという災難に遭い、意識喪失のなかで譫妄状態となって、さまざまの幻像(ヴィジョン)をみました。

幻像はちょうど、危篤に陥って酸素吸入やカンフル注射をされているときに始まり、そのイメージがあまりにも強烈だったので、ユングは「死が近づいたのだ」と思います。

「とにかく途方もないことが、私の身の上に起こりはじめていたのである」

 

『青い地球をユングは見た』

 私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球全体は入らなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らしい青光に照らしだされて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻銀のような濃緑の斑点をつけていた。 

このあとさらに続く地球の姿の記述に、著者(立花隆)は驚きました。アポロが撮った地球の写真と一致していたからです。

(1968年にアポロ8号から撮影された写真が、初の地球の全体写真といわれています)

 

『私は存在したもの、成就したものの束(たば)である』

ユングは、しばらくの間「私が今までにみた光景のなかで、もっとも美しいものであった」という地球を眺めたあと、自分の家ほどもある大きさの、隕石のような黒い石塊が、宇宙空間をただよっているのを発見します。その石塊は中がくり抜かれて、ヒンドゥー教の礼拝堂になっていました。

ユングがその中に入り、岩の入り口に通じる階段へ近づいたとき、不思議なことが起こります。

自身の目標、希望、思考したもののすべて、そして、地上に存在するすべてのものが、走馬灯の絵のように、ユングから消え去り、離脱していったのです。

その過程はきわめて苦痛でしたが、残ったものもいくらかはありました。

かつて、自分が経験し、行為し、身のまわりで起こったことのすべてが、まるで「今ともにある」というような実感です。

『これこそが私なのだ』という深い納得でした。

 

 このようにして、ユング臨死体験を通じて、人間存在の本質を洞察するにいたるのである。

 人は死ぬとき、この世に属する一切のものを捨てていく。それと同じことが、臨死体験でも起こる。捨てられて消えていくのは物質的存在だけではない。この世に属する思いの一切が捨てられ、欲望や我執の一切が、希望さえ含んで消えていく。全てを捨てて捨てていったとき、最後の最後にギリギリ残るものは何なのか。これこそが私、といえるものは何なのか。それは私のまわりで起きたできごとの総体であり、私自身の歴史であり、私の成就したものの総体であるとユングはいう。

 

まさに、「三途の川とお花畑だけが臨死体験なのではない」ということを証明する、稀有の体験例です。

 

 

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