※ ひとつ前の掌編『新しい家~New Home~』の続きになります。
バルコニーというものは、家の内と外を分ける境界のひとつだ。小鬼が住むのにちょうどいい場なのかもしれないと、紀久代は思った。
朝、窓を開け、さり気なく姿を見せてくれる小鬼に、
「おはよう」
と、声をかける。
季節は初夏から夏へ向かい、雨と明るい晴天が繰り返されている。野原はあふれんばかりの生命力を誇っていた。
仕事に出るときは、「いってきます」。
帰ってきたら、「ただいま」。
小鬼が引っ越してきてから、なんとなく毎日が楽しい。
半世紀近い昔の記憶をさぐり、小鬼についてあれこれ聞いた話を思い起こしてみる。
子供の頃、かわいがってくれた近所のおばあさんは、昔話をたくさん知っていたし、その土地で起きた不思議な出来事にも精通していた。
「小鬼は人間のことばをしゃべらない。けれど、小鬼と話す方法はある」
と、紀久代に教えてくれたのだ。
その1、小鬼に話しかけるときは、横向きになり横顔を見せて話す。
その2、いちどに多く話さず、答えが返ってこなくても気にせず、のんびりと続ける。
その3、小鬼のことばを聞くときは、体の向きを変えて、「背中で聞く」こと。
「せなかで聞くって?」
「そうだねぇ、後ろにいる小鬼のことを気に掛けながら、静かに耳を澄ませるんだよ。だからといって、声が耳に聞こえるというものでもないが……」
説明するのがむずかしそうだった。
おばあさんには仲好しの小鬼がいて、随分おもしろい話を聞かせてくれたらしい。
「紀久代ちゃん、小鬼に名前を尋ねてはいけないよ。名前を教えてくれるのは、お別れする時だけなんだ」
と、少し寂しそうに言った。
長いあいだ埋もれていた知識を実践するに当たり、紀久代はホームセンターでガーデニング用の椅子を買ってきた。車輪がついていて、移動したり向きを変えたりしやすく、花壇のそばで座ってみると、ほどよい高さだった。
「おはよう、あなたが来てくれて、私はうれしいわ」
照れながらの第一声が、棒読みのようになって苦笑する。
小鬼は目も耳も鋭敏だそうだから、ささやくように話しかけた。どちらにしても、集合住宅のバルコニーで大きな声は出したくない。
話し終えた後、椅子を回して花壇に背を向け、しばらくじっと待ってみたけれど、何も起こらなかった。
(でも、これでいい)
と、思った。
毎日あいさつし、週に1、2回は座って語りかけることで、生活にリズムが生まれた。
おもしろい事があると、小鬼に聞かせたくなる。返事のほうは、背中にあたる日差しのぬくもりを楽しむくらいの気楽さで待った。
「あなたが住んでいた空き地ね、あの面積で建売の住宅が4軒も建ったのよ。基礎工事の土台を見たときは、それぞれの敷地をパズルみたいに組み合わせていてびっくりしたけれど、建ってしまえば普通のお家だったわ」
と、報告したり、
「エレベーターでとなりの部屋の人と一緒になったの。そしたらね、前に住んでた方はバルコニーに時々カラスが来るので怖がっていたけれど、今はもう大丈夫みたいでよかったですね、と言われたわ。あなたのおかげよね、ありがとう」
小鬼効果に感謝したりした。
ときには、誰にも言えなかった愚痴をこぼしてしまう。
「私と創太に、老後の面倒をかけたくないと考えて、両親は介護付きのマンションへ引っ越したの。もちろん、すごくありがたいことなんだけれど、そのために家を売ってしまったのが、ほんとうは悲しかった。帰る場所がなくなってしまったみたいで。あの、なつかしい小さな家は、もうこの世から消えてしまって……」
途中で、言葉を飲みこむ。
小鬼が空き地の野原を転々として、ここまでやってきたことを思い出したのだ。感傷にひたっていたことを、少し恥ずかしく思い、紀久代はうなだれた。
ふと、胸の奥で、水底から泡が立ちのぼるような感覚があった。
いくつもの小さな泡は水面に届き、はじけて短いことばになる。
生きること
は
変わり
続けること
思わず振り返ると、小鬼が飄々としたまなざしで、紀久代を見つめていた。