かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

今こそ『時の娘』

 

スコットランド出身の推理作家ジョセフィン・テイの歴史ミステリ『時の娘』(1951年発表)は、時を超えて永く読まれ続ける名作中の名作です。

国史の予備知識がなくても、物語として、知的エンタテインメントとして、心から楽しめる1冊。

 

時の娘 (ハヤカワ・ミステリ文庫 51-1)

時の娘 (ハヤカワ・ミステリ文庫 51-1)

 

 

英国の薔薇戦争の昔、王位を奪うため、いたいけな王子を殺害した悪虐非道の王、リチャード三世。

捜査中不慮の事故に会い、退屈な入院生活を送るグラント警部は、ふと一幅の肖像画を手にした。思慮深い双眸。誰か判らないが、犯罪者の顔つきではない。

だが、これがあの悪人リチャード王のものだと知った警部に疑問がめばえた。

彼は本当に伝説どおりの悪の権化だったのか?

王の隠された素顔に興味をもった警部は、かくして純粋に文献のみから歴史の真相を推理する。

安楽椅子探偵ならぬベッド探偵登場!

探偵小説史上に燦然と輝く歴史ミステリ不朽の名作。 

 ~文庫本カバーに掲載された紹介文~

 

出合ったのはずいぶん昔ですが、何度も読み返している本です。

フェイクニュースという言葉を見たり聞いたりすると、この本を思い出します。

テーマとして、偽史(pseudohistory:意図的に偽造され流布された結果、信じられるようになった偽りの歴史)を扱っているからです。

 

『時の娘』の探偵役グラント警部は、一般的に信じられている「歴史」よりも、自身の違和感や疑問を大切にしました。情報を集めて取捨選択しながら推理し、自分で判断して答えを出したのです。

 

★☆これ以降の文章には、多少ネタバレ的な内容が含まれています。『時の娘』を先入観なく楽しまれたい方は、この先に進まないことをお勧めします☆★

 

 

 

 

 

スコットランドヤード(ロンドン警視庁)のアラン・グラント警部は、もともと「人の顔」に興味がありました。

「警察の仕事につくずっと以前には、人々の顔を眺めるのは彼にとっては楽しいことだったし、そののち、警視庁に入ってからは、その趣味は個人的な楽しみと同時に職業的な利点にもなってくれたのだった」

「人間の顔を何かのカテゴリーに分類するのことは不可能だったが、個々の顔を性格づけることは可能だった」

というように、顔を見て直観的に人格を読み取る、慧眼の持ち主だったのです。

 

犯人追跡中に片脚と背骨を痛めて入院し、ベッドから動けずにいたグラント警部は、 見舞客が退屈をまぎらわすために持ってきてくれた歴史上人物の肖像画の束から、たまたまそれとは知らずに、リチャード3世の肖像画を手にします。

 

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『時の娘』の表紙にもなっている肖像画です。

 

グラント警部は、描かれた男性の非常に個性的な、人の心を惹きつける眼の表情に、強い印象を受けました。

「この男は裁判官か? 軍人か? 王子か? 誰か、非常な責任ある地位にあり、その権威の責務を一身に負っていた人物だ。あまりに良心的すぎた人物だ」

 

ところが、シェイクスピアの戯曲にも描かれたリチャード3世は、生まれつき背骨が曲がっていて醜悪な容貌を持ち、兄のエドワード4世が病死した後、狡猾な策略で王位を簒奪して、自分の甥である2人の幼い王子をロンドン塔に幽閉し殺害したとされる、イギリス史上稀代の悪王です。

納得がいかないグラント警部は、病室担当のナースから歴史の教科書を借りたり、見舞いにきた部下に歴史書の入手を頼んだりして、独自の「調査」を始めました。

 

そして、同時代の法律家サー・トマス・モアの権威ある歴史書『リチャード三世史』を読み、週刊誌記者の書いたゴシップ記事のような記述に不快感を覚えます。

リチャードがボズワースで戦死したとき、モアはたった8歳だったことを知り、憤然とするグラント警部。

「この歴史書に書かれていることは、すべて伝聞でしかないのだ。そして、もし、刑事が何より忌むものがあるとすれば、それは伝聞である。とくに、伝聞証拠となるとなお悪い」

推理小説ファンとしては、思わずにやりとしてしまう箇所でした。

 

ベッドから離れられないグラント警部のために、友人が強力な助っ人を引き合わせてくれました。大英博物館で歴史の研究をしている青年、ブレント・キャラダインです。

最良の調査員を得たグラント警部は、信用の置けない伝聞証拠より、関係者たちが実際にとった行動のほうを重視して、史料を調べるよう指示します。

「行為こそ言葉にもまして多くを語る」という考えの信奉者だったのです。

様々な文献や書簡を読みこむうち、グラント警部はリチャードに対して敬愛の念を抱くようになりました。

「彼はおそらく、歴史上でも最高の、明るい治世を築いたろうに」

といって、悲運の死を惜しみます。

 

 グラント警部とキャラダイン青年は、「誰が得をするのか」という犯罪捜査の定石で推理を重ねた結果、真犯人について確信を得るのです。

 

 

本の中でも触れられていますが、17世紀から18世紀にかけて、リチャード3世擁護論が興りました。リチャードの汚名を雪いで名誉回復を目指す歴史家と歴史愛好家たちの活動は現在まで続いています。

「リカーディアン」 (Ricardian )と呼ばれる人々です。

リカーディアンの働きかけで、リチャード3世の遺骨を探すための発掘プロジェクトがスタートし、ついに2012年、遺骨がイングランド中部レスターで発見されました。

 

530年の眠りから覚めた リチャード3世【Richard 3】 - Onlineジャーニー

 

 DNA鑑定の結果、本人のものと断定された遺骨には、頭部に8ヶ所以上の戦傷があり、壮絶な最期をうかがわせるものでした。強い脊椎側彎症も確認されています。

専門家によって、顔も復元されました。

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 発見された遺骨は、レスター大聖堂に再埋葬されました。

数万の人々が、市内を進む葬列を見守り、ヨーク家の象徴である白薔薇を捧げました。埋葬の式典では、エリザベス女王からの直筆メッセージが読みあげられたといいます。

 

本のタイトルである『時の娘』(The Daughter of Time )は、古いことわざ「真理(真実)は時の娘」から取られています。

その意味は──、

 本当のことは時が経つにつれ、明らかになるものである