ゲシュタルト心理学の重要な概念のひとつに、『図』と『地』という考え方があります。
《figure and ground》
ある物が他の物を背景として全体の中から浮き上がって明瞭に知覚されるとき、前者を図といい、背景に退く物を地という。
この『図』と『地』の関係は、ルビンの杯(または、盃、壷)という図形で、よく説明されます。
白い部分に意識を向けているときは杯に見え、黒い部分を意識すれば向かいあう2人の横顔に見えるのですが、両方を同時に認識することはできません。
杯を『図』として認識しているとき、横顔の部分は形としての意味をなさない背景(地)になってしまうからです。
そして、ひとたび横顔に意識を向ければ、『図』と『地』は入れ替わり、今度は杯のほうが背景に退くのです。
この現象を『図地反転』と呼びます。
ゲシュタルト療法では、
「今、どんなことが気になっていますか?」
という問いかけによって、その時点で意識の前面に現れている『図』からスタートし、ワークが進む過程で、図地反転を起こすことが、しばしばあります。
私は普段、自分が見たいもの見るか、あるいは、知らず知らず身につけてきたやり方でものを見て、目に映った『図』が自分の世界のすべてだと考えています。
けれど、ふとしたきっかけで、それまで意識してこなかった『地』に気づけば、その瞬間、図地反転によって、思いもよらない新しい『図』が立ち現れ、世界の広がりを実感するのです。
時には、気づきたくもなかったことに直面する場合もありますが、ルビンの杯を見て、ただの「杯の絵」だと思ったままでいるより、「横顔の絵」に気づき、図と地が反転する驚きを知りたいと思うのです。
たとえば、今、置かれている状況が、どうしようもなく行き詰まっていたとしても、それは『図』として認識している範囲のことであって、意識していない『地』の領域には、明るい展望があるのかもしれません。
さて、私は推理小説(ミステリー小説)ファンなのですが、いちばん好きな国内の作家は、泡坂妻夫さんです。
紋章上絵師、アマチュア奇術師、そして直木賞作家でもあった泡坂さんの作品群は、まさに図地反転の宝庫といえます。
ミステリーのトリックを明かすわけにはいかないので、『煙の殺意』という短編集に収められた「椛山訪雪図(かざんほうせつず)」から、江戸時代前期の俳諧師、其角(きかく)の句のエピソードを抜粋して紹介させていただきます。
~別腸(ホームズ役)と十冬(ワトソン役)の対話~
闇の夜は、吉原ばかり月夜かな
別腸 「この其角の句は、何を言おうとしているのか、判りますか?」
十冬(難解な句ではなかった。どうということのない、ただの句ではないか)「つまり、こうでしょう。闇の夜、月の出ていない夜、江戸の町々は静かな闇の底に沈んでいる。だが、吉原の遊廓、遊里の世界だけは別で、その一廓だけは満月のように明るい。つまり、歓楽の不夜城、吉原の繁栄を詠んだ句ではありませんか?」
「とすると、ずいぶんありふれた句だとは思いませんか。対手は一筋縄ではゆかない其角ですよ」
「すると、この句には別の意味があるとおっしゃる?」
「よろしいですか。もう一度詠みますから、よくお聞きなさい」
闇の夜は吉原ばかり……、月夜かな
「あっ──」
十冬は思わず小さな叫び声をあげた。魔法にでもかけられたようだった。別腸の詠み方によって、句の意味はがらりと変わってしまったのである。
闇の底にあった江戸の町々は、みるみる満月に照らされて浮び出され、明るく輝いていた吉原の遊廓が、すうっと真暗な闇に包まれてしまったではないか。
陰画は一瞬のうちに、陽画に逆転したのである。
「お判りでしょう。この句は詠み方によって、正反対の意味になってしまうのです。弦歌高唱、耀明尽きることを知らない紅灯の世界は、嘘と駈け引きの世界、煩悩の闇に閉じ込められているとも言えるのです」
この短編を読んだ折には、「一筋縄ではゆかない其角」といわれてもよく知らないと思ったのですが、今回改めて調べてみたら、
鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春
鶯の身をさかさまに初音かな
夕すずみよくぞ男に生れけり
などの句が、まったく詳しくない私でも記憶にありました。