かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

ユニコーンの角 ~「普通がいい」という病~

 

「普通」とは、使い勝手の良い言葉だと思います。

平常であることの安心感や、主流派の心強さを表せます。どこか謙虚だけれど、卑下しているというほどではなく、時代や環境によって変わる幅広さも持っています。

 

その反面、否定的に使われると、急に表情が変わる言葉でもあります。

「普通は、そうしない」

「普通なら、こうすべき」

「普通ではない」

圧迫感を感じます。書いた文字を見ているだけで、落ち着かない気分になってきました。

(なんとかして普通になるか、普通に見えるよう取り繕ろわなければ──)

という思いが、反射的に湧いてくるのです。

幼い頃に植えつけられ、長い年月をかけて根を張ってきた感覚は強力です。ゲシュタルトの祈り「あなたはあなた、私は私…」をとなえ、ただ価値観の相違に過ぎず、それ以上でも以下でもないと考えても、うまくいかない場面が多々あります。

 

精神科医・泉谷閑示(いずみや かんじ)さんの著作、

「普通がいい」という病

タイトルに引かれました。

 

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

 

 

はじめに

 私たちはみんな、ほかの人とは違う「角(つの)」を持って生まれてきました。「角」とは、自分が自分であることのシンボルであり、自分が生まれ持った宝、つまり生来の資質のことです。

 この「角」は、何しろひときわ目立ちますから、他人は真っ先にその「角」のことを話題にしてきます。動物としての習性からでしょうか、集団の中で「角」のためにつつかれたり冷やかされたりして、周囲から格好の餌食にされてしまうこともあります。そんなことが繰り返されますと、いつの間にか「この『角』があるから生きづらいんだ」と思うようになる人も出てきます。

 〈中略〉

 アメリカの劇作家テネシー・ウィリアムズの戯曲『ガラスの動物園』には、ひきこもりがちになっているローラという若い女性が登場します。ローラは、ガラスで出来た動物のコレクションを大切にしていて、中でも一番のお気に入りが、ユニコーン(一角獣)です。

〈中略〉

 この劇中で、ローラの大切なユニコーンがアクシデントで床に落ち、その「角」が折れてしまいます。しかし、そこでローラはこう言います。

──でも、いいのよ。神さまがこういう形で祝福して下さったのかもしれない。

──手術を受けたと思うことにするわ。角の切除、おかげでこの子も変種っていうひけ目を感じないですむ。これからは、角のない他の馬たちともっと気楽につき合えるのよ。

テネシー・ウィリアムズガラスの動物園』より 松岡和子訳 劇書房)

 

この本は、カウンセラーや医療職を目指す人たちに向けた講座などで話した内容をベースに、10回連続の講義形式で構成されています。

精神科医としての臨床経験から明らかになった所見に加え、ニーチェツァラトゥストラ』の「三様の変化」や夏目漱石の「自己本位」など、表現者のことばが数多く引用され、さまざまなヒントや示唆に富んだ内容です。

 

「普通」について

 クライアントにはじめてお会いした時に「どう変わりたくてここにいらしたのですか?」と尋ねますと、「普通になりたいです」と答える人がかなりいらっしゃいます。その気持ちは分からなくもありませんが、私はそこに、とても寂しいものを感じます。特に日本人がそうなのかもしれませんが、「普通」になりたい人がとても多いのです。

 

「普通」になることを目指すよりも、人間の生きものとしての特性を理解したうえで、「自分で感じ、自分で考える」という基本に支えられた生き方の回復に取り組んでみませんか、と呼びかけてくる本です。

 

ある仏教の入門書にあった話をもとにした「五本のバナナ」というお話は、特におもしろかったです。

 

五本のバナナ

 バナナに目がない日本人旅行者が、ある貧しい国で旅行をしています。

 その国は大変な暑さで、道ばたには物乞いがたくさんいます。中には飢えていて、実に哀れな様子の者もあります。そんなとき彼は、ある飢えた物乞いの姿を目の当たりにして、何か施しをしようと考えました。

 彼はちょうど大好物のバナナを五本持っていました。普段の彼は、三本食べると満腹になって満足します。さて、そこで彼は、自分で食べるのは二本で我慢することにして、残りの三本を気の毒な物乞いにあげたのでした。しかし、この物乞いはバナナが嫌いらしく、一言のお礼も言わず、目の前で「こんなものはいらない」と、地べたにバナナを捨てたのでした。

 

「さて、バナナをあげた彼は、いったいどんな気持ちになったでしょうか」

と、著者は問いかけます。

せっかくあげたバナナを、感謝もなく投げ捨てるなんて、怒り心頭にちがいありません。

しかし、もし自分でお腹いっぱい三本を食べてしまって、残り二本はどうせ持っていても暑さで腐ってしまうだけだからとあげた場合なら、それほど腹は立たないでしょう。

この一本の違いが、「愛」と「欲望」の違いを生むのというのです。

我慢をしてあげた一本には、「感謝」や「自己満足」という見返りへの期待が込められていて、善い行いのように見えても、やはり「欲望」なのです。

 

 ですから、「愛」のために私たちに出来る第一歩は、逆説的ですが、まず自分をきちんと満たしてやることなのです。ところが面白いことに、人間は自分を満たしても、必ずいくらかは余るように出来ている。この余った物を使ったときには「愛」の行為になる。ここが大事なポイントだと思います。

 

私は「必ずいくらかは余るように出来ている」というところが好きです。

 

この本を読んで、自分の角はどんな状態なのか気になりました。

著者の泉谷閑示さんは、精神科医として着々とキャリアを積み重ねていた11年目の秋、勤務医の仕事を辞めて、パリ・エコールノルマル音楽院のピアノ科へ留学することを決意したという方です。

 

さすが、「角って」いらっしゃいますね。