ぼくの持ち主、明のウッドクラフト工房は、小さな工場や作業所が寄り集まっている町なかにあった。
ドアを入ってすぐわきの椅子の背に、仕事用のエプロンが掛かっている。
エプロンは丈夫な布地で出来ていて、寸法も、5つあるポケットの位置も、すべて明の注文どおりに作ってあった。
大きな前ポケット2つには、それぞれノートと定規が収まり、その上の小さめのポケットには、色と種類別に分けたペンが差してある。そうしておけば、思い浮かんだクラフトのデザインをすぐに描きとめられるし、ラフ画を作ることも出来た。
ひとつだけ残った、何も入っていない5番目のポケット、それが「ぼく」だ。
仲間のポケットたちには役目があるのに、ぼくだけが空っぽで、何の仕事もしていない。それはほんとうにつまらないことだったから、自分がやれそうな何かを探し続けていたのだ。
朝、明は仕事場にやってくると、まずエプロンを身に着ける。
そして、ラジオの音楽番組を流し、コーヒーを飲みながら、パソコンのメールで注文をチェックする。
明のウッドクラフトは、アクセサリーや文房具、おもちゃなど、生活にとけこんだもので、どれにも木のぬくもりが感じられた。工房を立ち上げてしばらくは、仕事がなくて掃除ばかりしていたけれど、今ではいそがしい日が多くなっている。
作業をしていて気分が乗ってくると、明はよく歌をくちずさむ。
たったひとりの仕事場で、誰かに気がねする必要はないものの、歌は全然じょうずじゃなかった。明自身もわかっているのだろう、歌いながらときどき苦笑いしていた。
明の歌を聞いていて、ぼくは名案を思いついた。
それからというもの、毎日ラジオから流れてくる歌を覚えようと努めた。明が帰った後の工房で、そっと練習してみると、すきま風よりも小さい声しか出せなかったけれど、ぼくには歌の才能があることがわかった。
きっと、エプロンを作ってくれた糸ちゃんが、歌のじょうずな人だからだ。
糸ちゃんというのはニックネーム。小学生のときから縫いものが好きで、裁縫箱いっぱいに糸のコレクションを持っていたから、そう呼ばれるようになったのだ。
明のほうも、木切れと彫刻刀があれば、いつまでも飽きずに遊んでいた子どもだったというから、似た者どうしだったわけだ。
ふたりは高校のときに知り合って、おたがい大切な仲間を見つけたと思った。
10年たった今でも、そのきずなは変わっていない。
ぼくは、糸ちゃんゆずりの歌唱力を活かして、専任のボーカルエフェクト係をすることにした。明が歌いはじめると、寄りそうように声を合わせる。音程のずれを補い、強弱を整えて、なめらかな旋律に聞こえるようサポートするのだ。
「あれ、今日はやけに歌の調子がいいな」
明がつぶやき、上機嫌で仕事に打ちこむすがたを見て、ぼくは誇らしかった。することがなくて居心地が悪かった日々がうそみたいに、毎日いっしょに歌って働いている。
ときどき、明が手もとに集中するため、ふいに歌をとぎらせると、わずかに遅れて歌いやめたぼくの声が、エコーのように響くのだった。
今日は一週間ぶりに、糸ちゃんが遊びにきた。
両手に買いもの袋をさげている。服飾メーカーに勤めているのに、お休みの日は手芸店めぐりをするのが趣味なのだ。
明はすぐに仕事を切りあげて、エプロンのうえから上着をはおると外に出た。
近くの公園を散歩して、ハンバーガーショップで昼ごはん。そのあとはカラオケというのがいつものコースだ。ロマンチックじゃないなぁと思うけれど、気のおけない友だちどうしのふたりは楽しそうだ。
カラオケ店では、ぼくは最新マシンの音響効果に興味津々だった。エフェクト技術向上のヒントが得られるかもしれないと気を取られているとき、とつぜん糸ちゃんが、ぼくを指さして言った。
「そのエプロンのポケット、だいぶくたびれてきてるわ」
「えっ、そうかな?」
明もエプロンの胸もとをのぞきこむ。
ふたりの注目をあびて、ぼくは照れた。
「ちょっと見せて」
糸ちゃんに言われ、明はエプロンを手渡した。
「ふしぎね。この5番目のポケットにはなにも入っていないのに、ふちがこんなにすりきれてる。だけど、だいじょうぶよ。明くんが2、3曲歌っているあいだに直してしまうから」
と言い、ソーイングセットを取り出して糸を選びだした。
明は歌おうとはせず、かがり縫いをする糸ちゃんの手もとを見つめていた。
「このエプロンは、ぼくが使う道具に合わせてオーダーメイドしてくれたんだよね。それなのに、どうしてポケットをひとつ余分に作ったの?」
「どこかに少しだけ遊びのある服が、私は好きなの」
みごとな手つきでふちかがりを仕上げながら、糸ちゃんは答える。
「はい、できあがり」
「ありがとう。すごくきれいな縫い目だ。このエプロンはもう、仕事中のぼくの一部って感じなんだよ。ずっと大事にするね」
明のことばに、糸ちゃんはうれしそうに笑った。
うれしさでは、ぼくも負けていない。
ぼくは最初から、必要で大切な存在として作られたポケットだと解ったからだ。ふちかがりの縫い目を、勲章のように感じた。
ふたりはカラオケ店の前で手をふって別れた。
工房にもどった明は、仕事を再開するでもなく、ただぼんやりと座っている。
ぼくは、ようすをうかがった。
明の胸の鼓動が、早く熱く鳴っている。ハートのすぐそばで過ごしているぼくにとって、聞きなれたときめきの音だ。
大きくため息をついて、明がつぶやく。
「今さら言えないよな、10年も友だちでいて……、あいつのこと、いつのまにか好きになっていたなんて」
明が糸ちゃんを特別な女性として意識しはじめたことは、とっくに気がついていた。
ぼくは、いつも思っている。
──明、早く早く、糸ちゃんに打ち明けよう! 悩んでいるあいだに、手遅れになっちゃったらどうするの?
けれど、明は頭をかかえたままだ。
やきもきしながら待っていると、やがて、低い歌声が聞こえてきた。いつもはあまり歌うことのないラブソングだった。
ためらいがちだけど、思いのこもったラブソング。
ぼくもそっと声を合わせる。
ぼくたちは、繰り返し歌いつづけた。
少しずつ、明の心に勇気が満ちてくるまで。