かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

河合隼雄著「明恵 夢を生きる」を読むたびに思うこと

 

数十年来の河合隼雄ファンです。

その河合隼雄さんが「とうとう日本人の師を見出したという強い確信をもった」とまで敬意を表されたのが、鎌倉時代初期の名僧、明恵(みょうえ)上人です。

明恵上人が約40年にわたり夢を記録した『夢記(ゆめのき)』を、「ユングが個性化、あるいは、自己実現の過程と呼んだものの素晴らしい範例であるとさえ感じられる」と称賛しています。

 

明恵 夢を生きる (講談社+α文庫)

明恵 夢を生きる (講談社+α文庫)

 

内容紹介のことば

生涯にわたって自分の夢を記録しつづけた名僧・明恵の『夢記』を手がかりに、夢の読み方、夢と自己実現の関係、ひいては人間がいまを生きるうえで大切なこと等をユング心理学の第一人者、夢分析の大家が実証的に説く。夢で生き方が変わることもある……。
第一回新潮学芸賞を受賞した、人間の深層に迫る名著。

 

 夢に云はく(夢の記録)と、案じて云はく(解釈)

『夢記』では、夢の記録の後に、今日で言う夢の解釈に相当するものが記されている場合があり、その実例として、明恵上人48歳のときの夢が挙げられています。

「水の少ない小さい池がある。雨が降って水が溢れてきて、もう少し雨が降り続くと傍にある大きい池とつながるだろうし、大きい池に棲んでいる魚や亀などが小さい池の方に通うだろう」

という夢を、

「すなわち、小さい池は禅観であり、大きい池は『諸仏菩薩所証の根本三昧』であり、修行することによって(夢では雨が降ることによって)、この二つの池がつながり、禅観が諸仏菩薩へ通うことになる」

と、明恵上人は解いています。

これはまったく、まさに水が低きにつくような自然な解釈で、われわれのような現在の夢分析の専門家もこれに従うのではなかろうか。もちろん、夢の解釈は一義的ではなく、夢を見た人にとって、それが意味あるものとなることが重要であるが〔中略〕その点で、この明恵の夢の解釈は見事なものと感じられる。 

 

何気ない夢であっても、それをどのように捉え、どんな意味を見い出していくかが重要であり、その創造的な作業をするためには、継続ということが大切なのだと思いました。 

 

 島への手紙

明恵上人が「島」宛てに手紙を書き、それを弟子に届けさせたという、有名なエピソードがあります。手紙の相手、紀州の苅磨(かるま)の嶋は、明恵上人が子どもの頃に、よく遊びに行っていた島だと言われています。

この苅磨の嶋に明恵は一通の手紙を書いた。彼にとっては、島も人も同等なのである。おもしろいのは、この素晴らしい手紙を手にした弟子が、これをどこにもっていったらいいのかと尋ねると、明恵は「苅磨の嶋に行き、梅尾(とがのお)の明恵房からの手紙だと高らかに呼んで打ち捨てて帰って来なさい」と事もなげに答えていることである。明恵のいたずらっぽい微笑が目に見えるような気がする。彼は遊びに真剣になることのできた人なのである。

 

多くの人に慕われた明恵上人の、人間的な魅力が伝わってきます。

想定外のミッションに戸惑う弟子に対し、的確な指示を与えるところがすばらしいですね。

 

 あるべきようは 

明恵上人が、我に一の明言あり、此の七字を持(たも)つべし、と説いたのが、

「阿留辺幾夜宇和」あるべきやうわ(あるべきようは)です。

この言葉には、僧としての戒を護るという外にも、大きな意味があると、隼雄さんは書いています。

明恵が「あるべきやう」とせずに「あるべきやう」としていることは、「あるべきやうに」生きるというのではなく、時により事により、その時その場において「あるべきやうは何か」という問いかけを行ない、その答えを生きようとする、きわめて実存的な生き方を提唱しているように、筆者には思われる。

 

その「問いかけ」をするには、もちろん意識的に考えることが必須ではあるけれど、無意識からのメッセージもまた同様に大事で、それが「夢を生きる」ということにつながるのではないかと思いました。

 

 読むたびに思うのは

私も夢を記録しようと、何度かチャレンジしましたが続きませんでした。

夢の記憶というのは不思議で、目を覚ました直後に失われてしまうこともめずらしくありません。夢を見たことは覚えているのに、内容がまったく思い出せない……。

ですが、目覚めた瞬間に、夢に見ていた人や場所、物、行為などから、なにかひとつでもキーワードとして留めておくと、それを糸口に内容を思い出すことが出来るようです。逃げていく夢のしっぽをつかまえる感じでしょうか。

 

夢を記録するためには、枕元にノートと筆記具を置き、起きてすぐ書き留めるというのが、推奨されている方法なのですが、失敗体験を思い返すと、この「書く」というところが、私は苦手だったのです。

起きぬけに文字を書き留める、その後文章として書き起こす、ちょっと人には見せられない内容のノートを保管する、それぞれのことを、かなり負担に感じました。夢を記録するおもしろさより、面倒さの方が勝ったのです。

 

ですので、前と違う方策を考えました。

筆記用具の替わりに携帯電話のボイスレコーダーを使う。そして、はてなブログ

自分だけが閲覧できるサブブログの方に記録しようと思っています。

ひょっとしたら、ブログの記事のヒントになるかもしれないという「動機づけ」もあるので、今度は継続できるかもしれません。