八千代さんは長いあいだ、フレンチレストランで、オーナーシェフをささえるスーシェフとして働いてきました。いそがしさを苦にもせず料理を作り続けてきましたが、60歳を過ぎたある日、ふいに「潮時」を感じたのです。
幸いなことに、後を任せられるスタッフも順調に育ってきています。
「これからは、気ままに暮らしていくわ。食べ歩きもしてみたいし、若いころ料理の修行をしたフランスに旅行もしたい。みんな、今までほんとうにありがとう」
と、笑顔で別れを告げました。
ところが、仕事をやめたとたん、ひどい風邪をひいて寝込んでしまったのです。まったく食欲がありません。これまで病気らしい病気をしなかった八千代さんは、すっかり参ってしまいました。
ベッドに横たわって天井を見つめていると、心に大きな穴があいたように感じます。
しばらくのんびりした後は、自宅を改造してクッキングサロンを開こうとか、オリジナルレシピの本を書こうとか、いろいろたてていた計画は、もうどうでもいいことに思えました。
「このままじゃいけないわ。しっかりと食事して、元気を出さなくちゃ」
とはいっても、料理をつくる気力もありません。しかたなく、レトルトのスープやおかゆを食べていました。
そんなとき、郵便受けに「配食サービスのお知らせ」というチラシを見つけたのです。高齢者や、事情があって調理できない人のために、お弁当をひとつからでも配達してくれるデリバリーサービスです。配食センターに登録されているのは、地元の定食屋からお弁当専門の業者まで、さまざまでした。
八千代さんは20件近くあるリストから、「ホームデリバリー明日香」を選びました。住所が近所なのと、ごく普通のお惣菜をメインにしているところが気に入ったのです。すぐに1週間分の配食を注文して、
「これで、ひと安心」と、ベッドに戻りました。
あくる日のお昼に、あたたかいお弁当が届きました。
食材のバランスもよく、食べやすい大きさと形に切ってありました。調理した人の、こまやかな気配りを感じます。
「いただきます」
手を合わせてから、ひとくち食べたとき、不思議なことが起こりました。
心が一瞬のうちに、50年以上も昔にさかのぼったのです。
まだ建て替える前の、障子と畳がある古い家――。
「おいしい!」
箸をにぎって笑っている八千代さんは、おかっぱ頭の女の子で、大好きなギンガムチェックの服を着ています。そばには、お母さんがいて、やさしくほほえんでいました。大きな柱時計が時を刻む音まで、聞こえてきます。
はっとわれに返った八千代さんの目に、涙があふれました。
「この料理の味つけは、お母さんの味そのものだわ」
なつかしさにつつまれたまま、ゆっくりと食べ続けました。
その日から続いて届くお弁当は、日替りでメニューが変わっても、すべて母親の明恵さんが作ってくれたものと同じ味がしました。
「いったい、どういうことなのかしら」
お弁当を運んでくる人は、配達専門のドライバーなので、何も知らないようでした。
首をかしげているだけでは、謎は解明できません。どんな人が作っているのか、どうしてそっくりな味なのか、なんとしてもつきとめたいと思いはじめました。
毎日、ちゃんと食べているおかげで、ようやく元気を取り戻してきた八千代さんは、久しぶりに外出しました。
ホームデリバリー明日香の住所を書いたメモを手に、番地をたしかめながら住宅地を歩いていきます。それらしい店や建物が見つからず、しばらく行きつ戻りつしました。
青いワンボックスカーが、八千代さんを追い越して、少し先の一軒家の前に停まりました。配食サービスセンターの車です。今日のお昼も、お弁当を届けてもらったばかりでした。
「あのお宅が、明日香さんなのね。空いた容器でも運んできたところかしら?」
車が走り去るのを待ってから、八千代さんは白いアーチ型の門に近づき、呼び鈴を押しました。
玄関の扉が開くまでの短いあいだ、鼓動がしだいに高まっていきます。
(もし、亡くなったお母さんが、昔のままのすがたで現われたとしたら……)
という思いが、頭のなかをかけめぐります。
けれど、顔をのぞかせたのは、若くほっそりとした女性でした。
八千代さんは挨拶して名を名乗り、訪ねてきたいきさつを率直に話しました。
「そうですか。ようこそいらっしゃいました。どうぞお上がりください」
と招かれ、なかに入ると、
「ミサト、お客様かい?」
顔立ちのよく似た男の人が、奥の部屋から出てきました。
「お兄ちゃん、こちら八千代さんよ」
「え、あの八千代さん?」
そっくりなふたりの笑顔に見つめられ、八千代さんは戸惑いながら客間のテーブルに着きました。
ミサトさんが紅茶を入れているあいだに、お兄さんのほうは古いノートを持ってきて、八千代さんに差し出しました。表紙に絵が描かれています。おかっぱ頭で、赤いギンガムチェックの服を着た女の子が、おいしそうにごはんを食べている絵でした。
小さく「ヤチヨサン」の文字が添えられています。
よく知っている、なつかしい文字と絵でした。
まばたきもせずに見つめていた八千代さんは、紅茶の香りに気づいて顔をあげました。
「これは、母が書いたノートですね」
向かいに並んで座っている兄妹は、そろって大きくうなずきました。
「はい、明恵さんが僕たちの母に贈ってくださった、レシピノートです。母は、若くして結婚し、この町に引っ越してきました。料理というものがまったくできなくて、とても困ったそうです」
「お嬢さま育ちだったんですよ。きっと父とは、かけおちみたいにして結婚したんだわ」
「ミサト、おまえはまたそういう勝手な想像をして」
たしなめられて、ミサトさんは小さく首をすくめます。
「すみません、八千代さん。話を戻しますね。母は偶然、明恵さんと知りあって、料理を教えていただいたのです。それも、一緒に買い物に行って食材を選ぶところから、キッチンでは調理器具の扱いかたまで、つきっきりで。そして、まったく料理を知らない母にもわかるように、レシピノートまで作ってくださったんです」
八千代さんはノートを開きました。ところどころに挿し絵があり、簡潔な文章で綴られています。内容を読み進むうち、おどろきと誇らしさで胸がいっぱいになりました。
どのレシピも、誰もが易しく楽しんで作れるように、合理的に考え抜かれています。出来るかぎりシンプルでありながら、家庭料理の本質は大切に守られているのです。
「わが家の、たからものです!」
ミサトさんが目をかがやかせて言いました。
「今、僕たちの両親は、仕事の都合で海外に住んでいるのですが、向こうでも明恵さんのレシピは大好評で、料理を教えてほしいという人が後をたたないそうです」
「確かにこのレシピなら、たとえ外国の方でも簡単に作りかたをマスターできるわね。ありがとう。母もきっと天国で喜んでいると思います」
自分と同じごはんを食べて育ってきたふたりに、八千代さんは心から親しみを感じました。それだけに、先ほどから気になっていたことを聞かずにはいられませんでした。
「ところで、おふたりとも、とても疲れているように見えるのだけど……」
兄と妹は、おたがいの顔を見て笑いました。
「ほんとだ。お兄ちゃん、目の下にクマがでてる」
「お前こそ。――実はですね、デリバリーサービスが思った以上に好調で、注文が増えるのはありがたいんですが、ちょっと手一杯になってしまって」
「でも、せっかくうちのお弁当を気に入ってくださったのに、おことわりするのはいやなんです」
八千代さんは、自分の背筋がしゃんと伸びたのを感じました。
「ぜひ私に、お手伝いさせてくださいな。ついこの間まで、料理人として働いていたし、もちろん調理師免許も持っているわ」
ボランティアだろうと押し掛けだろうと、力にならずにはいられない決意で、いきおいよく立ちあがります。
どこかでずっと、見守ってくれているまなざしを、強く感じていました。