近所のベルギービール・カフェで食事をするのは、和樹にとって週に1度の楽しみだ。
平日は仕事がいそがしく、帰りが遅い。土曜日にはのんびり朝寝をして、掃除や洗濯、買い物、こまごまとした雑用を済ませると、もう午後の日は傾きはじめている。
和樹はいそいそと店へ向かった。
オーナー夫妻の笑顔に迎えられ、顔見知りの常連客、白山さんに挨拶して、向かいの席に座る。和樹が早めの夕食で、白山さんが遅い「おやつ」だったから、同席しているのは10分ほど、軽い話を楽しむのが習慣になっていた。
白山さんは和樹が思い描く、悠々自適なシニアそのものだ。
仕事からリタイアした後も、多趣味で充実した生活を送っている。今、いちばん熱を入れているのが「あなたの奇跡体験を買う」という、ネットショップの運営だった。
本人が体験した奇跡の実話を、本1冊くらいの値をつけて買うという趣向で、ときどき聞かせてくれる話は、「年に1度しか咲かない花が、自分の誕生日当日に咲いてくれた」という微笑ましいものから、手に汗握るような九死に一生の体験談まで、さまざまだった。
奇跡というのはけっしてめずらしいことではなく、奇跡に対して心を開いている人には、何度でも訪れるというのが、白山さんの持論だ。
なかでもいちばん多いのが、出会い。
人が大切な誰かにめぐり会うことは、それだけも奇跡なのだろう。
白山さんの前には、青リンゴの香りのフルーツビールと、チーズケーキが並んでいた。このカフェでは、ケーキなどのデザートにいたるまで、ビールに合うように作ってあるのだ。
まだ、置かれたばかりのようすだったので、
「今日はいつもより、遅めにいらっしゃったんですか?」
と、声をかけた。
「ええ、前の用事が長引きましてね」
「そうですか。では、ゆっくりとお話ができますね」
前菜として季節のサラダとジャガイモのフリット、そして、白熊のイラストがトレードマークのホワイトビールを注文してから、和樹はたずねた。
「ずっと聞いてみたかったんですが、白山さんは収集した実話をどうなさるのですか。たとえば、ブログに書くとか、本にして出版するとか?」
「いや、とんでもない。ああした話はすべて、孫のために集めているんですよ。私の孫は2年ほど前、治療のむずかしい進行性の病気に罹りましてね。ひと月のうち1週間は病室で過ごしています」
白山さんは温厚な顔をくもらせて続けた。
「もともと元気で好奇心の強い女の子ですから、さぞ退屈なんでしょう。見舞いに行くたび『なにかお話を聞かせて』とねだります。しかも、ほんとうにあった話がいいというんですな。最初のうちは、自分が見聞きしたことや、誰かに直接聞いた話をしていたんですが、そう続くものではありません」
「それで、ネットショップを……」
毎週のように顔を合わせていながら初めて知る、白山さんの思いだった。
「なかなかいいアイデアでしょう。奇跡の話というのは、どんなにささやかなものでも、喜んで聞いてもらえます。今日も病院へ行ってきたところですが、どうやら我々のところにも奇跡が訪れそうですよ。ありがたいことに!」
「何か良い知らせがあったんですね?」
白山さんはグラスをかかげて、乾杯の仕草をした。
「医学はまさに日進月歩です。病室には孫と同じ病気の女性がいて、すっかり親しくさせてもらっているのですが、先ごろ認可されたばかりの治療法で、いちじるしい効果があったと聞きました」
「では、お孫さんにも同じ治療法を?」
「ええ、週明け早々に、担当医が両親にくわしく説明をするそうです」
和樹はうれしくなって、自分のビールを祝杯のように飲みほした。
小さな黒板に手書きされた「本日のおすすめ」をながめながら、メインの料理とそれに合わせるビールを決める。
ケーキを食べ終えた白山さんは、コーヒーを頼んでから、あらためて和樹に向き直った。
「ところで、その同室の女性なんですが、病気が診断されたのは5年も前だそうです」
「それは、よくがんばってこられたんですね」
「ほんとうに――。当時、彼女には恋人がいたらしいのですが、ご自分の病気のことは打ち明けないまま、相手に別れを告げたようです。ときどき、1枚の写真を見つめていて、その横顔がさびしそうだと、孫から聞きました」
といって、和樹をじっと見た。
「実は今日、その写真を偶然目にしたんです。彼女がベッドの下に落としたのを拾ってあげたときにね。おどろいたことに、彼女と一緒に写っているのは、私の知っている男性でした」
和樹は信じられない思いで、白山さんの顔を見返した。
「まさか、その人は……」
5年前、理由も言わず去っていった恋人の名前を口にすると、白山さんが静かにうなずく。
いつのまにか和樹は、奇跡のただなかにいるのを感じた。