私は、考えごとを対話型でしている。脳内会話というものらしい。場合によっては、脳内会議になっていることもある。言葉のやりとりはごく自然に、絶え間なく続いていて、止むのは眠る時と、何かに集中している時くらいだ。
みんなそうだと思っていたので、中学生の頃だったか、なにげなく友だちに話したら、「私は違うよ」と言われ、びっくりしたことを覚えている。
「じゃ、なにしてるの? どうなってるの?」と聞くと、
「特になにも、空白。ずっと頭の中で会話して、考え続けていたら疲れない?」
ほんとに、その通りだ。
近頃「脳疲労」という言葉を耳にして、ぴったりのネーミングに出合えたと感じた。会話でも、会議でも、いたずらに長びくと堂々めぐりになるのは当然の成り行きで、とても疲れる。
この頃では、脳内の不毛な行き詰まり状態に気づくと、
「いま、ここ」
という言葉を繰り返して、自分の呼吸に意識を向けるようにしている。頭から身体へ、シフトするイメージで――。すぐ自動的に脳内会話へ戻ってしまうとしても、根気よく手動で切り替える習慣を身につけたいと思っている。
私にとって「いま、ここ」という言葉は、呪文のようなものだけれど、「呪」という字に抵抗がある。 この種の、効力を持った言葉のことを何と呼べばいいのだろう。
いつも声に出しているわけではないけれど、掛け声?
「いっこずつ」もよく使う。
やらなければならない事があるのに、やる気がおきない時、まずは目の前のことだけを見て、ひとつずつ片付けていこうと、うながすための言葉。
とりあえず動き出してしまえば、案外に、弾みがついて次から次へと進めることができるのだ。
こういう言葉は、流行語ほどではないにしても、使いすぎて効き目が薄れてきたり、いつのまにか使わなくなったりということも多い。そんな中で、私がいちばん長くひんぱんに、となえ続けているのは、
「だいじょうぶ」
もう少しまとまった文章もある。
ゲシュタルト療法という心理療法の創設者のひとり、精神分析医フレデリック(通称フリッツ)・パールズの「ゲシュタルトの祈り」だ。
Gestalt Prayer
I do my thing. You do your thing.
I am not in this world to live up to your expectations.
And you are not in this world to live up to mine.
You are you and I am I.
If by chance we find each other, it’s wonderful.
If not, it can’t be helped.
私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。
私はあなたの期待にそうために、この世に生きているのではない。
あなたも私の期待にそうために、この世に生きているのではない。
あなたはあなた、私は私である。
もし、たまたま私たちが出会うことがあれば、それはすばらしい。
もし出会うことがなくても、それは仕方ないことだ。
(フリッツ・パールズ)
百武 正嗣 著「気づきのセラピー はじめてのゲシュタルト療法」より
この文章に出合ったのは2年ほど前のこと。それ以来、どれだけ支えられてきたかわからない。