シロは峻介が生まれるより先に、家にやってきた。シロにだって子犬のころはあったに違いないけれど、記憶に残っているのは、いつも遊び相手になってくれた、優しい姉のようなシロだけだ。
シロには不思議な力があった。
忘れ物をしたまま学校へ行こうとすると、峻介の運動靴の上にすわりこんで動かない。そういうことが何度かあったから、先に気づいた母親が、
「シロが忘れ物サイン出してるわよ」
と、部屋まで知らせにくるほどだった。
それから、小学5年生のときの出来事。遅刻しそうになった峻介は、あわてて家を飛び出し、四つ角を曲がる直前に、耳もとで「シュン!」と呼びとめられた。思わず立ち止まった瞬間、目の前を自転車が猛スピードで通りすぎていった。まわりには誰もいない。びっくりして振り返ると、門の外までシロが出てきていた。足を踏んばって立ち、まっすぐ峻介を見ていた。
シロが病気で死んでしまったのは、その翌年の2月だった。
峻介は、かけがえのない仲間を失った。大好きな春を待たずにいったシロが、かわいそうでならず、身の置き所がないほど、胸が痛んだ。
朝夕の散歩がなくなっても、早い時刻に目が覚める。待っているシロがいないので、それまでは大急ぎだった学校からの帰り道も、足を引きずるように歩いた。
すると、道端の草花に気づいた。
ナズナ、ハコベ、シロツメクサ、オオバコ、ユキノシタ、ヒメジョオン……。
白い花を探しては、摘んで帰るようになった。ガラス瓶に差した花を、シロの写真と首輪の前に供える。すると、ほんの少しだけ、悲しみがやわらぐのだ。
秋が深まって花が見つからなくなるまで、峻介の儀式は続いた。
峻介は専門学校を出て、建築会社のデザイン部に就職した。
仕事は忙しく、いつも追いたてられているようだ。毎日残業続きだったけれど、水曜日だけは、会社の決まりで定時に帰れる。駅からワンルームマンションまで、にぎわっている夕方の商店街を歩くのは楽しかった。
仕事がら、店舗の外観や内装に、自然と目が向く。
(下町の商店街って、いくつも花屋があるんだな。ちゃんと距離を置いて共存してる)
そして、どの花屋のショーウィンドウにも、見るからに手作り風の、あたたかみのあるポスターが貼ってあった。
「花曜日(はなようび)」
という言葉が、花をモチーフにした飾り文字で描かれている。
峻介はふと、白い花を供え続けた月日を思い出し、商店街のはずれにある花屋の前で足をとめた。
河合花店というその店は、昔ながらの町の花屋さんという感じだ。けれど、なつかしさのなかに、どこか心ひかれる個性があった。みがかれたガラス戸と石畳の床、ほの明るい照明の下、色とりどりの花の並べかたが、はっとするほど美しいのだ。
若い女の人が、ひとりで店番をしていた。
毎週水曜日、河合花店で白い花を買って帰るのが、峻介の新しい習慣になった。
最初はアルバイトの店員さんかと思っていた女性が、店主らしかった。奥の壁に掲げられた生け花や茶道の免状には、みんな同じ「河合彩香」という名まえが書いてある。
「彩りと香りって、花屋さんにぴったりの名まえですね」
そんなふうに話しかけることができたのは、通い始めてしばらく経った頃だ。
「祖母がつけたんです。ひとり息子の父が会社員になってしまったので、どうしても私に花屋を継がせようと思ったらしくて。小学生のうちから、お花やお茶を習わされました」
「これはなんという花ですか?」
「ホワイトレースフラワーです」
名まえを知ると、花はいっそう可愛らしくみえる。
天気の話題や花の名まえの他にも、少しずつ話せるようになった。
「お客さまの花曜日は、水曜日なんですね」
「会社を定時であがれるのが、水曜日だけだから。でも偶然に、家族同然だったシロという犬が亡くなったのも水曜日で、人間なら月命日で月に1度だけど、犬の時間は人間より速く流れるから。週命日なんて、あるのかどうかわからないけど、この花はシロに供えるんです」
花をつつんでいた手をとめて、彩香さんが顔をあげた。
「ごめんなさい、悲しい思い出にふれてしまって……」
「あ、いや、全然かまわないです。もう10年以上も前のことだし」
あわてて答えながら、
(シロ、ごめん)と、胸のなかで手を合わせた。
水曜日、いつものように彩香さんの店に寄ろうとすると、店内が制服姿の高校生でいっぱいになっていた。
「文化祭の舞台で使うんです」
「あと、領収書もお願いしまーす」
明るい声が、外まで聞こえてくる。
(そうか、もう文化祭のシーズンなんだ)
峻介は、店先に並べられた花をながめながら、待つことにした。
花桶いっぱいのコスモスを見て思い出す。
(いつだったか、シロが散歩の途中で、ふだんのコースをはずれて走りだしたことがあったっけ)
かしこいシロのすることには、いつだってちゃんと理由があると知っていた峻介は、引っぱられるままに付いていった。すると、家と家とのあいだに、ぽっかりと空き地があり、誰かが種をまいたのだろうか、コスモスの花畑になっていたのだ。
リードを振り切るように飛び込んでいったシロは、めずらしくはしゃぎまわった。秋の風が吹くなか、コスモスの花のあいだに見えかくれしていた姿が目に浮かんできて、思わず涙ぐみそうになる。
「お世話さまでしたー」
にぎやかな声がして、高校生たちが出てきた。それぞれ大きな花の束を手にしている。
(えっ、たったの4人だったの? 倍くらいの人数かと思った)
感心して見送り、店内に入ると、なぜか顔をくもらせた彩香さんに出むかえられた。
「あ、お客さま、まことにすみません。今日は白い花をきらしてしまって……」
身を縮めるようにして頭を下げる様子にとまどい、峻介はとっさにどう返事をしていいかわからなかった。
(そういえば、さっきの子たちが持っていたのは、みんな白い花だったな)
陽気に白い花を買い占めている高校生客の向こう側で、ぼんやり待っている峻介の姿を見つけて、さぞかし彩香さんはやきもきしたことだろう。そう思うと心苦しく、せつないような気もちになった。
「いいです、また今度で」
気まずさを解消できるような言葉のひとつも思いつけない。そんな自分が情けなくて、峻介は足早に店を出ようとした。
「シュン!」
強く呼ばれて、思わず振り返る。
「今、呼んだ?」
いや、そんなわけない。いまだに峻介は、名乗ってすらいないのだ。
彩香さんは、大きく目をみはって首を横に振った。そして、静かな声で言った。
「いいえ、でも、呼びとめたいと思ってました」
花桶から数本のコスモスを抜きとり、よどみない手つきで花束にすると、そっと差し出す。
「どうそ、シロさんにあげてください」
うす紅、青みがかったピンク、淡い赤紫、それぞれの花が集まって、コスモス色としか言いようのない、やさしい色あいをしている。
花束を受け取ったとき、峻介は吹き渡る風を感じた。