祖父が、青紫色の花束を持って、目の前を通りすぎていく。
「おじいちゃん!」
奏多は思わず、高い声で呼びかけた。
「おお、奏ちゃん。もう学校は終わったのか。今から病院かい?」
「うん」
奏多の母親は先週から入院している。
仕事大好き人間の母は、夏の暑さを気にもとめずに働いていたが、9月に入ってから体調をくずし、会社でひっくりかえって救急車を呼ばれた。全治一週間の予定だ。目をはなすと、勝手に退院して仕事に戻りかねないので、奏多と祖父が毎日、クギをさしに行っていた。
「ねえ、その花どうしたの。おじいちゃんもこれからお見舞い?」
とっさに祖父は、花束を後ろにかくすそぶりを見せたけれど、思い直したように笑って、首を横にふった。
「病院には行ってきたところだよ。この花束は、さっき花屋の店先で見かけてね。この秋、初のりんどうだ。こいつを見つけると、つい買ってしまう。そして、ある場所に寄り道したくなる。なんというか、季節の行事みたいなものさ」
「そうなんだ、知らなかった」
祖父のことは、何でも知っている気がしていた。ものごごろついたときから、忙しい両親に代わって、奏多のそばにいちばん長くいてくれたのは、祖父だったから。
「内緒にしていたわけじゃないよ。ずっと昔、何の気なしに始めたことだしね。そうだ、これからいっしょに行くかい」
「近くなの?」
「すぐそこの、りんどう坂というところさ」
りんどう坂は、通りから少し奥まったところにある、細くなだらかな坂道だった。片側は高い塀が続き、もう片方は広い駐車場になっている。
「今は駐車場だが、ここは昔、原っぱでね。秋になると、りんどうがみごとに咲いた。それでりんどう坂と呼ばれていたんだが、地図に名前が載るほどじゃなかった。今の人たちは知らんだろう」
「ぼくも初めて聞いた。ここ、通ったことないかも」
「この坂はゆるやかに曲がりくねっているから、近道にもならないしな。そのかわり、静かで見通しのよくないところが、デートにはうってつけだったのさ」
奏多が目と口をまるく開けて見あげたので、祖父はおかしそうに笑った。
「そんなにびっくりしなくてもいいだろう。じいちゃんにも、若いころはあったんだぞ。それにデートといったって、ちょっと立ち話するくらいの、たわいもないものだった」
「――おばあちゃんと?」
祖母は、奏多が生まれる数年前に、協議離婚して家を出ていた。いちどしか会ったことがないけれど、ものすごくパワフルなおばあちゃんだ。
「いいや、奏多のおばあちゃんと知り合うずっと前、まだ高等学校の生徒だったときの話。相手の娘は、親御さんの仕事の都合で、外国へ引っ越してしまってね。それっきりさ」
坂のなかほどで、祖父はしばらくのあいだ立ちどまり、りんどうの花束を見つめた。
――まひろさんが、幸福に暮らしていますように
小さくつぶやく声が、風に乗って奏多の耳にとどく。
殺風景なコンクリートの駐車場に、りんどうの花が、澄んだ秋の気配を運んできたように見えた。
あくる朝、学校へ行く途中、奏多は道をたずねられた。
「このあたりに、りんどう坂というところはありませんか?」
きのうの今日という偶然に、おどろいてふりむくと、
「ひさしぶりに来たら、すっかりようすが変わっていて……」
はにかんだように目をふせているのは、きれいなおねえさんだ。まっすぐな長い髪と、白く透きとおるような顔。
「あっ、はい、知ってます。こっちです」
目じるしになるものがない道なので、説明するより先に立って案内したほうが早い。坂の入り口のところまで連れていって、指さした。
「ご親切にありがとうございます」
うれしそうに言って、坂をのぼっていくうしろ姿が、さいしょのカーブで見えなくなったとたん、奏多は心配になった。
もし、りんどうの花を見にきたのだとしたら、期待がはずれてがっかりしてしまうのではないだろうか?
考える間もなく追いかけた。
「あの、すみません。りんどうはもう咲いてないですよ。駐車場になってしまって――」
言いかけたところで息をのむ。
長い髪がさらさらと風にゆれていた。その背中のむこうがわには、野原がひろがっている。
青紫のりんどうが、ちりばめられたように咲いていた。
その人はふりかえりながら、なつかしげな声で言った。
「龍一さん……?」
祖父の名前だ。
奏多は背をむけると、うしろも見ずに駆けだした。
走りに走ったので、途中で時間をとられたのに、いつも通り学校についた。けれど、友だちの話も、先生の授業もまるで耳に入らない。
(きっと、あのおねえさんは、おじいちゃんが話してくれた人「まひろさん」だ)
そして、まひろさんはもう、この世に生きている人ではないのだ。奏多はふるえる両手をにぎりあわせて思った。
うわの空で過ごしているうち、怖ろしさはだんだんとうすれ、放課後になって病院へ向かうころには、
(おじいちゃんが知ったら、どんなに悲しむだろう)
という考えが、頭の中をめぐっていた。
病棟の廊下を歩いていると、思いがけない場所で祖父を見つけた。
ナースステーションのすぐそばにある病室の前だ。ソファに浅く腰かけて、心配そうにうつむいている。
どきっとして立ちどまった。看護師さんたちが目を配りやすいその病室は、手術を終えたばかりの人や、救急治療室から運ばれてきた人たちなど、病状が不安定な患者さんが入る部屋だ。
(まさか、お母さんが……)
あわてて近づこうとしたとき、腕をぐっとつかまれた。母親と同部屋の先輩患者さんだった。
「あ、浜さん。お母さんのぐあい、悪くなっちゃったの?」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。お母さんは元気よ」
請け合いながら、奏多を談話室へ引っぱっていく。浜さんは病棟でいちばんの情報通だ。物見高くておしゃべりだけど、悪口を言わないので、みんなに好かれている。向かいあわせに座って顔を見ると、浜さんの目が生き生きと輝いていた。
「長いことああしていらっしゃるのよ、奏多君のおじいさま。私ね、偶然に売店で会って、そこまでお話しながら来たの。そうしたら、あの病室の、今日入院された方のネームプレートを見て、とても驚かれて、そのあとずっと心配そうに部屋の様子を見守っているのよ。きっとお知り合いなんだわ」
「なんていう人ですか?」
「名字はね、田中さんだったか、中田さんだったか。下のお名前がむずかしくて、真実の真に、尋ねると書いて『まひろ』さんというの」
奏多のびっくりした顔を見て、浜さんは、やはりというようにうなずいた。
「それなら、奏多君からおじいさまに知らせてあげて。看護婦さんやスタッフさんたちが話しているのを、たまたま小耳にはさんだのだけど――」
と前置きして、情報を伝えてくれた。
まひろさんは昨夜、自宅で軽い発作を起こしたらしい。ひとり暮らしだったので病院への連絡が遅れ、今朝がた運ばれてきたときは予断を許さない病状だったそうだ。
そして、一時は心肺停止の状態におちいった。
「えっ!」
奏多は顔色を変えた。やはり、今朝りんどう坂で見たのは、これから永遠に旅立とうとしている、まひろさんの霊魂だったのだ。
「だいじょうぶよ。すぐ蘇生処置をして、今はもう安定しているみたい。ひと晩は様子を見るでしょうけど、明日にも4人部屋のほうへ移れるんじゃないかしら」
と、浜さんがなだめるようにほほ笑んだ。
「浜さん、ありがとう。それを教えてあげたら、祖父もほっとするはずです。花屋さんにとんでいって、りんどうの花束を買ってくるんじゃないかな」
安心のあまり、つい、よけいなことをしゃべった気がして、奏多は口を押えた。
浜さんが、ふしぎそうに首をかしげた。
「今、りんどうと聞いて思い出したわ。まひろさんが意識を取り戻したとき、こう言ったんですって。――なんてきれいな、りんどうの花――」