雪矢は子どものころから、走ることが好きだった。
飛びぬけて速かったわけではないけれど、同じ速度でどこまでも走り続けることができた。だから、距離の決まっていないかけっこでは、いつも一番だった。
実業団の長距離選手となった現在まで、ずっと走り通してきたことになる。レギュラーとサブメンバーをいったりきたりの選手生活も苦にならない。走る以外の「仕事」に時間をとられるスター選手より、よほど性に合っていた。
「コーチングスタッフに誘ってもらえたのね?」
電話越しの声を聞いただけで、奈都美が満面の笑みを浮かべているのがわかる。けれど、雪矢自身はそれほど喜べなかった。
「プレイングコーチなんて聞こえはいいけれど、要するに選手としては期限切れってことさ。寮も出なくちゃならないし、いろいろ責任も増えるし、めんどくさいことばかりだよ」
奈都美は沈黙した。
(まずい、あきれ果てたヤツと思われたか?)
高校の陸上部で、頼りないキャプテンだった頃、マネージャーの奈都美にはずいぶん助けられた。以来、頭が上がらない。
「軽く打診されただけで、まだ何も決まったわけじゃないからさ。この話はもういいんだ。それより奈都美の花火、見逃さないから。がんばれよ、気をつけてな」
「ありがとう。第2幕の開始早々だからわかりやすいと思う」
「だいじょうぶ、応援してるよ」
再びエールをおくって、電話を切った。
奈都美が父親の花火工場で、花火師見習いとして働きだしてから10年になる。一度見学させてもらったことがあったが、危険と隣り合わせの厳しい仕事だ。
「やっぱり、私にはむりだったみたい。もう、やめてしまおうかな」
涙まじりの声で打ち明けられたのはいつのことだったか。
「そうだね、むりすることないよ。だけど、やめるのは明後日にして、とりあえずあと1日だけがんばってみたら?」
と、雪矢は答えた。
奈都美は、あと1日、もう1日とがんばりぬいて、とうとうオリジナルの創作花火を作らせてもらえるところまできたのだ。
花火大会は、陸上部の寮からよく見えるので、当日は屋上が開放される。毎年のことながら、開始前からお祭りさわぎになっていた。
(まわりに気をとられて、万が一にも見逃したら大変だ)
屋上ではなく、一人で外階段から見ることにした雪矢は、上の方から降ってくる、仲間たちの笑い声を、階段の手すりにもたれて聞いていた。
突然、大きな音がひびきわたり、夜空に光の花が咲いた。花火大会が始まったのだ。
盛大に打ち上げられる、色あざやかな花火をながめながら、ぼんやりと思いをめぐらせた。
(ただ走ることだけ考えていればよかった暮らしも、もうじきお終いか……。いちばん高いところで、いざぎよく燃えつきてしまえる花火がうらやましいよ)
思わずため息が出た。
そうしているうちに、奈都美に教えられたプログラムの順番が近づいてきた。雪矢は背すじを伸ばし、目をこらして待った。
真っ白にきらめく光が、雪の結晶のかたちに広がった。銀色の尾をひき、舞いおどりながら散っていく。
次から次へと打ち上げられると、つかの間、夏の夜空に光の雪が降りしきったように見えた。
まばたきもせずに、雪矢は見つめていた。消えていく花火の雪を、さいごのひとひらまで見とどけようと、身をのりだす。
すぐに、別の花火があがりはじめた。
けれど雪矢は、少し離れた空の一点を見ていた。そこには、奈都美の花火から飛び散った光の粒がひとつ、まだ消えずにまたたいているのだ。目をはなすことができず見入っていると、光がだんだん明るくなってくるように感じられた。
それが、想像を超えるスピードで近づいてくるせいだと気づいたときには、もう、輝く光のかたまりが目の前までせまっていたのだった。
額を直撃された雪矢は、両腕で頭をかかえてうずくまった。きつく閉じたまぶたの裏に火花が散り、キーンと耳鳴りがする。
一瞬の後、なにもかも静かになった。
空白と静寂のなかを雪矢は漂っていた。そして、思いがけない光景をかいま見たのだ。
見覚えのあるその場所は、花火工場の作業部屋だった。花火師が精魂をこめて作りあげた花火の玉が、並べて置いてある。
携帯電話を握りしめた奈都美が入ってきた。目が怒りに燃えている。
「いつまで待たせる気なの。もう知らないからね、雪矢!」
と、鋭い声で言った。
続けざまに大砲を打つような音が、空気を震わせる。階段に座りこんだまま目を上げると、手すり越しに見える夜空には、まだ、花火が上がっていた。
あのとき作業部屋にあった花火のひとつが、奈都美の怒りを預かったのだろうか。まるで流れ星のように空を横ぎり、雪矢めがけて一直線に飛んできた。
ヒリヒリとした額の痛みにせかされるように、雪矢はいきおいをつけて立ちあがった。
(花火大会が終わったら、奈都美に電話しよう。どうしても会って伝えたいことがあると言おう)
──待ってくれていることに気づかなくて、ごめん