林間学校の第1日目、真志は初めて、本物のカッコウの鳴き声を聞いた。
と、感心する。
夕食後、先生のお話や注意事項を聞くために集合したレクリエーションルームでは、正面の目立つ場所に、大きな額がかかっていた。
5つの漢字が筆書きされた、不思議な書だ。
ずいぶんと縦に長い「気」、丸文字のような「心」、横向きに倒れた「腹」、そして、大きな「人」という字の下には小さな「己」の5文字。
意味を先生が説明してくれた。
「これは、気は長く、心はまるく、腹立てず、人は大きく己は小さく、と読みます。はじめの3つはそのままでもわかるでしょう? あとの2つは謙虚さということを表しています。人としての心がけを、わかりやすく覚えやすく、書き記してあるんですね」
文字クイズみたいだったから、みんな笑っていたけれど、真志はおもしろいとは思わなかった。
(あの小っちゃい「己」は、ぼくのことをいってるみたいだ。大きな「人」の下で縮こまっている)
真志は自分でもいやになるくらい、気が弱くて怖がりなのだ。
夜は、大部屋にふとんを並べて敷いた。消灯の時刻をすぎても、クスクス笑いや、ささやき声のおしゃべりが聞こえ、ときどき枕が投げられたりしているうちはよかった。
懐中電灯を持った先生が、何度目かに見回りに来たあと、だんだんと、まわりのみんなは眠りについていく。
真志だけが、暗闇に目を見開いたまま、聞きなれない物音や気配にびくびくして、長い夜を過ごすことになったのだ。
ようやく眠ることができたのは、窓の外がうっすらと明るみはじめたころで、いくらもたたないうちに起床時刻になってしまった。
廊下の洗面台で順番を待っているうち、耳がキーンとして、目の前が暗くなった。
(ああ、いやだな……)
あわててしゃがみこんだ。
寝不足のため貧血をおこした真志は、楽しみにしていた山歩きに参加できなかった。午前中ずっと、部屋で横になっているように言われたのだ。
お昼の時間になると、がらんとした食堂でお弁当を食べた。ほうじ茶を持ってきた施設スタッフの人が、
「具合がよくなったのなら、少し散歩してくるといいわよ。裏の敷地は雑木林になっていて、気もちのいい遊歩道があるからね」
と、おしえてくれた。
真志は体操服に着がえ、リュックを背負って表に出た。
昼下がりの日差しは強かったけれど、林のなかに入ると、空気はひんやりとしている。立ち並ぶ木々のあいだを歩いていくうち、しだいに心が軽くなってきた。
「おーい」
風にのって声が聞こえてくる。
耳をすませて、背の高い木々にふちどられた空を見あげ、視線をもどすと、目の前に女の人が立っていた。
真志は息がとまりそうになった。いきなり現れただけでもびっくりなのに、その人は先が細くなった袴と、袖のない羽織のようなものを着ていたのだ。
「林間学校に来た小学生だろう? ひとりでどうした、迷子にでもなったか?」
切れ長の明るい目が、まっすぐ見つめてくる。
真志が声も出せず、首を横に振りつづけていると、
「真志か。良い名前だね」
体操服の胸もとについている名札を見て、ほめてくれた。
「私の名前は、ソラ。君は仲間とはぐれてしまったの?」
「ちがいます。ぼく、寝不足で貧血おこしちゃって――」
口ごもりながら、今朝からのことを説明したあと、思いきってたずねた。
「おねえさんは、山伏?」
とたんに、笑い飛ばされた。
「いいや違う、私は天狗だよ」
「天狗! 女の人なのに?」
「女だって、天狗になれる。君の名前みたいに、真のこころざしがあって、一生懸命に修行すればね」
怪しくて、怖い。けれど、好奇心のほうが少しだけ勝った。
「ソラさん、前は人間だったの?」
「そうだよ。私の師匠だって、普通の人間から天狗になった。師匠の師匠という方は、生まれながらの天狗だったらしいが、そういう天狗は、もう姿を見せないね」
話を聞いているうちに、思ってもみない言葉が、真志の口からこぼれ出た。
「ぼくも、天狗になれるかな」
ソラは片方の眉をあげて、問いかけるように真志の顔をのぞきこんだ。
「なに、君は天狗になりたいの?」
「だって、天狗は強いんでしょう? ぼくは強くなりたいんだ」
涙ぐみそうになったから、顔をしかめて何度もまばたきする。
「私は、真志と同じくらいの歳から、空を飛びたかった。おとなになって、働いてお金を稼げるようになると、ハンググライダーやスカイダイビングなんかをやってみたよ」
「すごいねぇ」
「うーん、でも、そういうスカイスポーツは、望んでいたものと違っていたんだ。そんな折だね、師匠と出会ったのは。ひとりで夏山を登っていたとき、天翔けるように空を飛ぶ師匠を見つけた。夢中で追いかけて、弟子入りを頼みこんだよ」
ソラはなつかしそうに目をほそめた。
「天狗見習いとして、師匠について何年も修行した。ようやく、この春、ひとりで自由に修行を続けるお許しを得たんだよ」
「空を飛べるようになったの?」
「いいや、まだ地面から飛び立つという、いちばん難しいところが今ひとつだし、飛行距離も短い。せいぜい、こちらの木からあちらの木へ飛び移るという程度かな」
真志は肩を落とした。おとなになってから、その先何年も修行して、それでもまだほんとうの天狗になれないなんて、気が遠くなるようなことだ。
ソラは、着物の懐から、小さな木の板と、細長い道具を取り出した。
「これはお札と矢立。矢立というのは、昔の携帯用筆記用具さ。こんなふうに筆と墨がセットになっているんだよ」
筒から出した筆に墨をふくませると、お札に大きく文字を書いて、真志に差し出す。
受け取ってみると、まだ墨の跡が光る「胆」という漢字1文字だった。力強く、そして、下にいくほど広がっている台形の字だ。
「空を飛ぶばかりが天狗の修行じゃないからね。いいかい、真志。そこに書いたように、胆さえしっかり据わっていれば、たいていのことはなんとかなる」
真志は、レクリエーションルームの額を思い出した。
「ぼくの胆はきっと、生まれつき、すごく小さいんだと思う」
ため息まじりにつぶやくと、ソラが高笑いした。
「胆に大きいも小さいもあるものか。もって生まれたことに気づいているか、いないかだけだ」
目を見はっている真志にひとつうなずき、わきに立っていた樹の幹に手をかけたかと思うと、ソラは高々と飛びあがった。ひとつの枝から、もっと高い次の枝へ、見る間に駆けのぼっていく。
はっと、われにかえった真志は、顔を天にむけ、もう姿も見えなくなった天狗に向かってさけんだ。
「ソラさぁーん、ありがとう!」
はるか高みから、声だけが返ってきた。
「──応──」