「観天望気」
書いた文字を見せながら読みあげると、ハヤさんが首をかしげて言った。
「カンテンボウキ……、これまで使った記憶のない言葉です」
私も同じだった。今日、仕事で気象予報士の人と話す機会があり、仕入れてきたばかりの知識だ。
観天望気とは、自然現象や生き物の行動を観察して、天気を予測すること。
- 月に暈(かさ)が掛かると雨
- きれいな夕焼けの翌日は晴れ
- 鐘の音が良く聞こえるときは雨
- アマガエルが鳴くと雨
- ツバメが低く飛ぶと雨
- ネコが顔を洗うと雨
どこかで聞いた覚えのある「お天気のことわざ」も、観天望気の一種だ。
「それぞれ根拠があるのよ。たとえば、鐘の音。地上で発せられた音は、上空に暖かい空気が広がっていると、大きく屈折して遠くまで届くから、良く聞こえるんですって。そして、上空が暖かいときは前線が近いことが多いので雨が降りやすい、というわけ」
「なるほど。毎日のように鐘の音は聞こえるし、猫も顔を洗うけれど、普段とのちょっとした違いを、天気と結びつけた経験則ですね」
「昔のひとの知恵よね。もしかして、寸一の得意分野だったんじゃない?」
寸一は江戸から明治にかけて生きた行者で、ハヤさんの「前世」だ。
何かのきっかけで、寸一だった時代の記憶が浮かびあがると、ハヤさんの昔語りが始まる。
「たしかに得意分野といえそうですね。でも、僕が寸一だったとき住み着いていた土地には、その観天望気に長じた家系があったものですから──」
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サチは幼いころに母を失い、去年十五で父を亡くしたが、気丈にも家業を続ける決意をした。
家は代々、天気の先読みを生業としており、伝書も多く蔵している。ものごころがついてからずっと父親のそばで学んできたので、やり方はわかっていた。
毎日、決まった刻限に丘へ登って空模様を眺める。
木々や草花の変化を見逃さず、身近な生き物に注意を払い、それらを簡にして要を得た言葉で書き留める。
サチは寝る間も惜しんで家にある文書を読んだ。そして、わからないことがあればその都度、寸一に教えを請うた。
その甲斐あってか、天気の読み方を大きくはずすことはなく、案じて見守っていた人々の信用をつなぎとめることができたのだ。
ところが、そんなサチの評判を聞き、よからぬことを企む二人組の小悪党がいた。
「たかが小娘が、やすやすと天気を先読みしてしまうとは、おかしな話だ」
「噂では、あの家には秘伝の書というものがあるらしい。そいつがあれば俺たちでも、天気を言い当てられるに違いない。米相場で大もうけできるぞ」
「うまく言いくるめて上がりこみ、少々おどかして娘の手に端金を押しつけてから、伝書を持ち出そう。盗むのではなく買い取ってくるのだ」
示し合わせて、サチの家を訪れたのであった。
物堅い商人のような身なりで、愛想笑いを浮かべた二人を、サチは用心深く迎えた。
昔、亡き父と懇意にしていたと言い、仏壇に手を合わせる姿に、何とも言えず胡散臭いものを感じる。そこでサチは、煮炊きの手伝いに来ていた近所の女房に耳打ちして、人を呼んでくるように頼んだ。
悪賢い男たちが目を付けたのは、文机に置かれた一冊の帳面だった。病を得た父親が、サチのため懸命に書き残した手引書である。
やにわに本性を現した男がサチの手をつかみ、無理やり包み銭を握らせる一方で、もう一人は素早く立ち上がり、文机の書に手を伸ばす。
サチが鋭い声をあげたとき、外から轟くような音が聞こえてきた。
突如として吹き出した強い風が、壁にぶつかって家を揺るがし、引き戸を吹き飛ばしたのだ。
開いた戸口から、数え切れないほどの生き物が、風と一緒に飛び込んでくる。
驚いて棒立ちとなった男たちの顔を目掛け、蛙が次々と跳びつく。燕は低く飛び回って嘴でつつき、猫は威嚇の鳴き声をあげながら、爪を立てて襲いかかった。
知らせを聞いて駆けつけた近所の人々が見たものは、無我夢中で逃げ去っていく男たちと、座敷でただ一人、父の手引書を胸に抱いて立っているサチの姿だけであった。
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私は、ほっとして大きく息をついた。
「ああ、よかった。小さな生き物たちが、サチを仲間として守ったのね。昔の気象予報士は、それくらいしっかりと土地に根付いていた、ということよね」
「そうですね。実は、この話には後日談があって━━」
寸一のもとへ、弥四郎というサチの幼なじみが訪ねてきて、
「いつもサチと二人きりで長いこと過ごしているが、いったいどういうつもりでいるのか」と、問い詰めたのだ。
「どういうつもりも何も、ただ質問されたことに答えていただけですよ。それに寸一は、サチの父親より年が上だったんです。しかし、口さがない人たちが変な憶測をして噂になっていたらしく、弥四郎は心配でならない様子でした」
ハヤさんが苦笑する。
「あら、弥四郎さんが心配するのも当然だわ。それで寸一は、どう申し開きしたの?」
「申し開きって、どうして瑞樹さんまで詰問口調になるんですか。寸一は弥四郎に、サチに惚れているのなら直接気持ちを確かめればいい、直談判の相手が違うだろう、と説教しました。……そして、自分の心は常に、今はこの世にいない大切な人と共にあるのだから、邪推無用だとも言いました」
私はあたたかい気持ちになって、ハヤさんに笑いかけた。
いかなる世であっても、恋しい相手の心が「秋の空」になってしまうことを、人は心配するのだろう。
寸一の説教をくやしそうに聞いて帰っていった弥四郎は、そのままサチの家へ向かったそうだ。
サチは、危機を救いに駆けつけてきた人々の先頭に、弥四郎がいたことを覚えていた。
「あのときの弥四郎さんは、今まで見たことがないほど怖い顔をしていた。とても、頼もしかった……」
と、頬を染めるサチに、ようやく弥四郎も素直な気持ちを伝えることができたのだった。