銀ひげ師匠の書道教室に通って来ている泰一郎君が、弟子入りを志願したそうだ。
師匠からそのことを聞いて、晶太は驚いた。
「どっちの弟子ですか?」
「それがな、書道ではなく魔法の方なんだ。他の生徒さんたちが話しているのを耳に挟んで、私が魔法使いだということを知ったようだね。情報源は二人連れで、小さな女の子と年配の女性らしい」
「きっと、ゆなちゃんとお祖母さんですね」
師匠は去年、書道教室で最年少の結奈ちゃんから、庭に立っているスケアクロウについて相談を受けた。すぐに問題解決の方法を見つけ、その後の経過も順調なため、
「先生は魔法使いのようだ」と言われている。
結奈ちゃんはともかく、お祖母さんの方は本物の魔法使いだと思って言っているわけではないから、そこのところは泰一郎君の誤解だけれど、銀ひげさんはほんとうに魔法使いなので、結果的には当たっているのだった。
「もし弟子入りしたら、ぼくよりひとつ年上だから、兄弟子になるんですか?」
「いいや、弟子の兄・弟というのは入門した順序で決まるから、晶太の方が兄弟子だね」
来年、晶太が中学校へ入れば、泰一郎君にとっては下級生が兄弟子ということになる。ちょっと複雑な関係になりそうだ。
「今日、泰一郎君は改めて、面接のためにここへ来るから、晶太にも立ち会ってもらおうかな」
お父さんが伝統芸能の家元だという泰一郎君は、すずやかな雰囲気の持ち主で、正座している姿が美しい。
晶太も背すじを正して、銀ひげ師匠のななめ後ろに座った。
一方、いつも自然体の師匠は、気楽な調子で話し始める。
「とりあえず大いに歓迎するよ。ここに居る晶太も、私がスカウトして弟子になってもらったくらいだからね。ただし、地道な努力の積み重ねが必要だということは、あらかじめ言っておく。毎日続けて、ざっと十年くらいが修行の期間かな」
「十年……」
泰一郎君の表情が翳った。
「先生、僕も芸道を志す一人として、修行には相当な年月がかかることは承知しています。でも、たとえば、ある魔法だけを短期集中で特訓するというのはダメでしょうか?」
「ほお、ピンポイント・レッスンというわけだね。で、君が考えているのは、どういった種類の魔法なのかな」
「いちばん良いタイミングを知る魔法、です」
「タイミングと言ってもいろいろあるけど、具体的には、どんなことをするタイミング?」
答えに詰まった泰一郎君の顔が、見る見るうちに赤くなった。
「ひょっとして、好きな女の子に告白するタイミングかな。相手はもしや、書道教室の生徒さんだったりして?」
たたみかけるような質問に、
「……明里さんです」と、消え入りそうな声が答える。
「なるほど、そういえば明里さんとは、お稽古日が同じ曜日だったね。君が思いを寄せているとは、少しも気づかなかったよ」
晶太は人が嘘をつくとわかる。そこを見込まれて、魔法使いの弟子にスカウトされたのだ。
今の師匠の言葉は、明らかに嘘だった。
けれど、そうとは知らない泰一郎君は、かえって落ち着きを取りもどしたようだ。
「書道を学ぶための場ですから、態度に出さないようにしています。自分の言動に責任を持ち、まわりに及ぼす影響を考えなさいと、いつも父に言われているので━━」
ひと息ついた泰一郎君の口から、堰が切れたように言葉があふれ出てくる。
「よく、当たって砕けろ、と言いますよね。僕が明里さんに告白して断られたら、とてもつらいですけれど、耐える覚悟はあります。
でも、それだけじゃ済まないと思うんです。
失恋しても、僕は書道教室をやめるわけにはいきません。父が先生の指導方針に感銘を受けて決めた教室ですし、僕自身もこのまま学び続けたい。そうすると、ここで顔を合わせるたび、明里さんに気まずい思いをさせてしまうかもしれません。
それから、僕は今年のバレンタインデーに、明里さんの親友から告白されて、ほかに好きな子がいると言って断ったんですが、僕が明里さんに気持ちを伝えたせいで、二人の友情がぎくしゃくしないか心配です。
もし、告白してうまくいったとして、僕は幸せですけれど、ここの書道教室は風紀が乱れているとか、変なうわさが流れたりしたら申し訳が立ちません。
こんなふうに悩んでいるうち、手遅れになってしまったらどうしよう。
でも逆に、あわてて早まって台無し、とかも怖い。
ほんとにもう、どうしたらいいかわからないんです」
胸のうちに溜めこんできた、たくさんの心配事を語りつくすと、泰一郎君は両手を膝に置いてうなだれた。
いつからか面接というより、悩み相談みたいになってきたので、晶太は少しずつ師匠の後ろに下がり、目立たないように身を縮めていた。
(銀ひげさんはどんな魔法を使って、この悩みを解決するのかな?)
あらゆるものには、それを司る神がいる。
晶太が習っている魔法は、その神様に挨拶するところから始まる。唱える言葉は、独特の節がついた古めかしい日本語で、「ウタ」と呼ばれていた。
挨拶して親しくなると、神様が合言葉を教えてくれる。できるだけたくさんの合言葉を集め、状況に応じて組み合わせ、八百万の神に力を貸してくれるよう頼むこと、それが魔法使いの仕事なのだ。
(ぼくだったら、どうするだろう)
この頃は、そんなことも考えるようになったけれど、まだまだ晶太には難問だった。
「泰一郎君、チャンスの神様には前髪しかない、と言うよね。出会ったその時につかまなければならず、通り過ぎてからでは遅い。一瞬のタイミングをとらえるために必要なのは、魔法よりも、勇気と心構えかな。もし、100%の確率で神様の前髪をつかむ魔法があるとしても、それを習得するのは十年ではとても足りないだろうね。実のところ、この私もそんなすごい魔法は使えないよ」
と、銀ひげ師匠は笑った。
「そうなんですか……」
「がっかりさせて悪いね。とはいえ、折角いろいろ打ち明けてくれたのだから、ちょっと面白い魔法を見せてあげよう」
師匠が低い声で「ウタ」を唱える。
すると、部屋を横切って一直線に走る、光の筋が浮かびあがった。
赤くきらめく光線は、泰一郎君の胸もとから発していて、その先はガラス窓を抜け外へ向かっていた。
「これは、いわゆる運命の赤い糸ってやつさ。とはいっても、運命とはあまり関係がなくてね。今、君の胸のうちにある想いが、こうして輝きながら、まっすぐ明里さんへ向かっているんだよ」
「すごく、きれいですね」
まばたきもせず光の糸を見つめる泰一郎君の身に、異変が起こっていた。
額にかかった前髪が揺れ、勢いよくサラサラと伸び始めたのだ。伸びるそばから、ハラハラと散っていく。床に落ちかけては舞い上がり、渦を巻いて取り囲む。わずかな間に、泰一郎君のまわりは飛び交う髪の毛でいっぱいになった。
まるで、灰色のふぶきに閉じ込められていくようだ。あれほど輝いていた運命の赤い光線を、かき消してしまうほどの勢いだった。
「ね? わかりやすいだろう。今の君は、ちょうどこんな感じさ。頭の中であれもこれも考えすぎて、いちばん大切なものを見失いかけている」
銀ひげさんの解説も、吹き荒れる髪ふぶきの渦中にいる泰一郎君の耳には、なかなか届かないみたいだった。。
(これは、後で掃除するのが大変だな……)
と思っていたけれど、呆然として帰っていく泰一郎君を玄関で見送って戻ると、教室の畳の上には何も落ちていなかった。
「師匠、今のは、髪の毛の神様に頼んで起こしてもらった魔法ですか?」
「いいや、違うよ。私はあまり、人の体に魔法を使うのは好きじゃないからね」
「だとしたら、何をどうしたんですか?」
晶太の問いかけに応えて、銀ひげさんが指差した先には、習字用の筆が並んでいた。
筆にはタヌキの毛が使われている。
「やっぱりタヌキは、化けるのが上手だね」
と、師匠は楽しそうに言った。