かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

アゲハ(創作掌編)

  

 私たちアゲハの体のなかには、「らせんの教科書」というものが備わっていて、いつ何をどうすればいいか、自然にわかるようになっている。 

 卵に穴を空けて外に出るタイミングも、ひと休みしてから卵の殻を食べることも、その都度「らせんの教科書」に教わった。

 先のことはわからない。

 けれど、ひとつも心配はいらなかった。葉っぱを食べて、休息する、それだけを繰り返していれば充分なのだ。

 

 私たちのおかあさんは、きょうだいでやわらかい葉っぱを取りあわなくてすむように、卵をひと粒ずつ離して産んでくれた。だから、きょうだいは近くにいないけれど、別のおかあさんの卵から出てきた仲間とは、ときどき出会う。

「ねえ、知ってた? 僕たちの体の、黒白まだらの模様って、鳥のフンの擬態なんだよ。擬態っていうのは、マネして似せることだけど」

 彼は大変な知りたがりで、難しいことばを使うのが好きだ。

 らせんの教科書を「遺伝情報」、衣替えは「脱皮」、私たちが隠し持っている唯一の武器であるツノのことを「臭角」などと呼ぶ。

 そういえば、最初に会ったときも、

「君は、孵化したときのこと、どれくらい記憶してる?」

 あいさつ代わりに、そう質問してきた。

 

 私は余計なことを知りたくない。

 なぜ、私たちの体を鳥のフンに似せているのか、その理由は考えたくない。

 それよりも、葉っぱの筋だけを残してきれいに食べつくすことや、光と風を楽しむことのほうが大切だった。

 

 4度目の衣替えは、そうなるとわかっていても驚いた。これまでと打って変わって、鮮やかな緑色の衣装だったから、嬉しいような、少し恥ずかしいような気持ちになった。

 彼も衣替えをすませただろうか?

 少し前から、姿を見なくなっていたけれど……。

 仲間がいつのまにか消えていく、それもまた、自然なことなのだ。

 だからといって、さびしいことに変わりはなかった。

 

 ひとまわり大きくなった私は、せっせと葉っぱを食べて過ごした。

 そして、あるとき突然に、

「これがさいごの食事だ」と、わかった。

 探しまわって見つけた場所に、何度も糸を張りめぐらせて土台をつくり、体を糸の帯で結びつける。 

 気にいっていた緑色の衣装を脱ぎ落とすと、サナギというものになった。

 もう、どこにも行けないし、何も食べられない。

(ここで終わり、ってことなのかしら)

 それならそれでいいと思った。これ以上、ひとりぼっちでいてもつまらない。

 

 しばらくすると、サナギのなかで私は溶け始めた。

 怖かったけれど、まっ先に、その恐怖心が溶けていったので、今まで感じたことのない深い安らぎにつつまれた。

 恐怖心というものがあったから、警戒することを知り、ここまで生きのびてこられたのだ。それが無くなったということは、ほんとうにもう「終わり」なのだろう。

(思い出だけは、さいごまで消えないでいてほしい)

 その願いどおり、思い出より先に、光と時間が溶けて消え、私は深い眠りに落ちた。

 

    

  羽ばたきなさい  

  羽ばたきなさい

  羽ばたきなさい……

 

 微かな声が、何度も何度もささやくのを、闇のなかで私は聞いた。

(羽ばたく、ですって?)

 あまりに的外れなことばだったので、思わず笑った。

 その瞬間、どこかでスイッチが入り、機械仕掛けのようにすべてが動き出した。溶けずに残っていたらしい「らせんの教科書」が活気づいて、今まででいちばん大掛かりな変化が始まった。

 

 晴れた日の朝、チョウに生まれ変わった私は、サナギの外へ出た。縮んだハネを伸ばし、ゆっくりと乾かす。

 日が高くなるころ、その先の世界に向かって、飛び立った。

 これからは、花の蜜を吸い、恋をして、卵を産む。

 そして、もうひとつ大切な役割があることも知った。

 サナギのなかで眠り続ける仲間に、「羽ばたきなさい」と呼びかける仕事だ。

 

「やあ、無事に羽化を果たしたんだね。おめでとう!」

 

 いくら広い世界だといっても、こういうしゃべりかたをするアゲハが、他にいるとは思えない。

 いかにも気楽そうな飛びかたで近寄ってきた彼に向かって、

「今まで、どこに行ってたのよ!」

 と、きつい口調で問いただした。

 

「人間の子供に捕まって、昆虫用飼育ケースのなかで暮らしてた。透明度の高いアクリルボックスだったおかげで、人間の生態をじっくり観察できたよ。今朝、羽化して成虫になると、外に放してくれたから、さっそく君を探しにきたんだ」

「……そうだったの。やさしい人間でよかったわね。でも、そんなふうに閉じ込められていたのなら、先にチョウになった仲間からの呼び声は聞こえなかったんじゃない? よく無事に、羽化を果たせたわね」

「そんなのは聞こえなかったけれど、ちゃんと遺伝情報が伝達されて、この通り完全変態を成し遂げたよ。そもそも、どうして呼び声が必要なのかなぁ……?」

 考えごとに夢中になりながら、彼は私のあとを付いてきた。

 

「あっ、かなり説得力のある仮説を思いついたぞ! 遺伝情報とは、つまり、過去のデータの蓄積だから、今ここで起こっていることは、今ここにいる僕たちにしかわからないんだ。だから、もし災害が発生するとか、有害物質が大気を汚染するとかで、生存に適さない状況だったら、非常事態をサナギに知らせてやらなければならない。ふさわしい環境になるまで、越冬サナギみたいに眠り続けるよう指示して、種の存続を守るのが、僕たちの役目なんだ!」

 

 話し続ける彼のことばを、私は途中から聞いていなかった。

 なぜなら、想像した以上に美しい、花という生き物が一面に咲く場所を、すぐそこに見つけたからだ。