かきがら掌編帖

数分で読み切れる和風ファンタジー*と、読書・心理・生活雑記のブログです。

金魚の想い(創作掌編)

 

「コイじゃないのか?」

「違います、コイじゃありません」

 昼休憩から戻ってきた男性社員2人が、声高にしゃべっている。となりの部署の課長と、その部下の江戸川さんだ。

(恋?)

 優海は思わず、耳をそばだてた。

「でも、あの大きさはどう見てもコイ、紅白のニシキゴイだよ」

「いいえ、金魚だそうです。お店の人から聞きました」

 

 今度は別の意味で興味がわいてくる。

 優海の祖父は、金魚の研究と飼育が趣味で、30センチ以上に育てた金魚も多かった。子供の頃、夏休みに泊りがけで遊びに行ったとき、いっしょに金魚の世話をしたことをなつかしく思い出す。 

「そんなに大きな金魚なんですか?」

 会話に入っていくと、

「このあいだ測らせてもらったら、34.5センチメートルありました」

 江戸川さんが誇らしげに答えた。祖父と同じで、かなりの金魚好きなのだろう。

 聞けば、その金魚がいるのは、会社にほど近いお蕎麦屋さんだそうだ。好奇心にかられた優海は、翌日のお昼に連れて行ってもらうことにした。

 

「すみません。ランチが昨日と同じところになってしまいますね」

 店に向かいながら謝ると、江戸川さんは笑顔で答えた。

「僕なら大丈夫です。ほぼ毎日、あの店に通っていますから」

 昔ながらのお蕎麦屋さんの、それほど広くはない店内の壁ぎわに、大きな水槽が置かれていた。金魚は紅白更紗模様の和金だ。

  江戸川さんは常連客の親しさでお店の人に挨拶してから、水槽のすぐそばのテーブルについた。すかさず寄ってくる金魚とガラス越しに見つめ合う。

「ほんとに、大きくて、きれいな金魚ですね」

 と言うと、自分のことを褒められたみたいに顔をほころばせた。

 

  食事しながら、祖父から聞いた金魚の飼育にまつわる話などをしているとき、優海はふと、強い視線を感じて振り返った。

 そして、水槽の中から、じっとこちらを見ている金魚と目が合い、ドキリとしたのだった。

 

 それ以来、何かおかしい。

 江戸川さんのことを、妙に意識するようになったのだ。

 気がつくと、姿を目で追っている。今までは、同僚として普通に見ていた彼が、やわらかなもやに包まれたように見えてしまう。

「恋愛フィルター」という現象を聞いたことはあるけれど、まさか、これがそうなのだろうか?

 優海は首をかしげた。

 もやでも、フィルターでもないと気づいたのは、しばらく経ってからのことだ。

(そうだ、あれはまるで、水槽のガラス越しに見えている姿のよう……)

 と思った瞬間、頭のなかに、あの大きな金魚の視線を感じて、背筋が凍りついた。

 

 半泣きで祖父に電話すると、その日のうちに駆けつけてくれた。

「金魚は、人に対する気持ちがとても強いんだよ。もともとフナの突然変異種だった魚で、人為的な品種改良を繰り返して進化させてきた観賞魚だから、人間との関係が深い。とはいっても、優海の心を乗っ取ろうとするなんて、絶対に許されないことだ」

 と、温和な顔を厳しく引き締める。

 昔話の『魚女房』は、若者に助けられた魚が、娘に変身して恩返しするストーリーになっているが、実はあれも、変身したのではなく、自分が選んだ娘に乗り移って、恋しい若者のところへ嫁いだのだ、という説もあるらしい。

 

「その蕎麦屋の金魚だって、想いを遂げたい一心でやっているのだろうが、何としても諦めてもらわないとな。私も金魚と共に半世紀以上生きてきただけに、顔を合わせれば、気持ちを通じさせる自信はある。優海にもいっしょに来てもらうことになるから、これを身につけておくといい」

 そう言って、白鷺神社のお守りを優海に持たせた。

 金魚の祖先であるフナなどの淡水魚にとって、白鷺は天敵のひとつだ。「金魚除け」の効果は高いという。

 

  優海は覚悟を決めて、祖父とお蕎麦屋さんへ向った。

 土曜日の午後3時、店は営業していたが、なかへ入る前に、思いがけないものを見つけて立ち止まる。

 水を抜かれて空になった水槽が、店の前に置いてあったのだ。

「お祖父ちゃん、あの金魚はどこへ行ったのかしら……」

 息をのんで、祖父を見上げた。

 

 ちょうどそのとき、店の扉が開き、水色のユニフォームを着た人が、大きな発砲スチロールボックスを2人がかりで運びながら出てきた。その後ろに続いているのは、驚いたことに、江戸川さんだ。

「江戸川さん」

 呼びかけながら走り寄ると、江戸川さんは目をまるくして優海を見た。

「金魚の水槽が空になっていますが、どうしたんですか?」

「あ、実は、こちらのお店から、金魚を譲ってもらえることになったんですよ。専門の運搬業者に頼んで、これから僕の家まで運ぶところです」

 答える顔が、喜びに輝いている。

 江戸川さんは挨拶もそこそこに、発砲スチロールボックスの後を追っていった。なかには、あの金魚が入っているのだろう。

 

 走る去る運搬車を見送りながら、優海は祖父に報告した。

「さっき、江戸川さんのことは元どおり普通に見えたし、頭のなかの視線も、今はもう感じない」

「それは良かった!」

「空騒ぎだったね。せっかく来てくれたのに、ごめんなさい」

 すると、祖父は目を細めて笑った。

「おまえの顔を見られただけで嬉しいよ。しかも、金魚の研究家として、貴重な事例を目にすることもできた。今はふたりの、いや、一人と一匹の幸せを願うばかりだ」

 祖父の言葉に、優海は深くうなずいた。